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釘まで輸入していた国が 鉄鋼生産世界一に

 

新中国成立直後、最大の生産量を誇っていた鞍山製鉄所(新華社、1957年撮影)

解放前の中国では、釘を「洋釘」、ブリキを「洋鉄皮」と呼んでいた。

鉄製品は釘やブリキまで、外国からの輸入に頼っていたからだ。

新中国が成立してから、政府は大いに鉄鋼業を振興したが、

急ぎすぎて全国的に「鉄鋼大生産運動」を引き起こした。

しかし、資源やエネルギーを浪費したうえ、

生産された鉄鋼の品質も悪く、失敗に終わった。

「改革・開放」政策で、中国の鉄鋼業は息を吹き返した。

外国から資本や技術、設備、管理の経験を導入し、急速に発展した。

この結果、中国の鉄鋼生産は13年連続で世界一となった。

いま、中国の鉄鋼業はまた新たな時代を迎えている。

いかにして遅れた企業を淘汰し、鉄鋼生産の総量をコントロールし、

企業を再編成し、構造を改善し、資源やエネルギーを節約し、

排ガスを減らし、環境を保護するか、という難問に挑戦している。

 

生産量は世界の1000分の1

1949年に新中国が成立した当時、人々はみな、一日も早く豊かな強い国にしたいと思った。しかし、長く続いた戦乱がもたらしたものは、ひどい荒廃であった。産業はダメージを受け、食糧は欠乏し、労働者は失業していた……。そこで国は、戦争の傷跡を癒そうと、人民の負担を軽減し、生産を回復させて民力を養う政策を実施した。

3年間の経済復興期を経て、1953年から中国は、工業化建設を開始した。しかし当時の中国は 「一窮二白」(一に経済的貧窮、二に文化的な空白)という状態だった。毛沢東主席は1954年、『憲法』 草案について演説し、こう述べた。

「いま、我々に何がつくれるのか。机や椅子がつくれるし、茶碗や土瓶がつくれる。米や麦もつくれる。それに粉や紙をつくることができる。だが、自動車、航空機、戦車、トラクターは一台もつくることができない」

この言葉に、中国の最高指導者の工業化を急ぐ、切ない思いが溢れている。

しかし、自動車やトラクター、戦車や飛行機をつくるには、大量の鉄鋼が必要である。中国はそれが足りなかった。1949年の全国の鉄鋼生産量は15万8000トンしかなかった。当時、中国の人口は、世界の4分の1を占めていたが、鉄鋼生産量は世界のわずか0.1%を占めるにすぎなかった。

2500年前に中国は、すでに鉄の製錬、鋳型に液状の鉄を流し込む鋳造、焼入れ、炭素除去などの冶金鋳造技術をもっており、鉄製のシャベルや鋤などの用具や剣や戈、鉞などの兵器を大量に生産することができた。これによって生産力の発展が推進され、古代の中華文明を生み出した。

しかし、古代の科学技術には限界があり、中国の鉄鋼の冶金・製錬技術は停滞し、前進することができなかった。近代になって、欧州から先進的な冶金・製錬技術が伝わり、はじめて近代的な鉄鋼業が興った。1890年、上海の江南製造局が、銃や砲を製造する鋼鉄を供給するため、日産3トンと15トンの製鉄所を相次いで建設し、1891年には中国初の高炉による鉄鋼を生産した。

同じ1890年に、両湖(湖南省と湖北省)総督の張之洞が漢陽製鉄所(武漢市)を建設した。さらにその後、石景山(北京市)、鞍山(遼寧省)、本渓(同)、太原(山西省)、馬鞍山(安徽省)、唐山(河北省)などに製鉄所が相次いで建設された。しかし、そうした製鉄所は規模が小さく、そのうえさまざまな制約があって、1948年までの58年間に、中国は累計で686万6000トンの鉄鋼しか生産できなかった。鉄は、工業生産に使うものから人々の生活に使うものまでほとんどが輸入に頼っていたので、「洋釘」や「洋鉄皮」などの言葉が日常的に使われたのだった。

中国の建設には、鉄鋼が差し迫って必要であった。そこで1953年から1957年までの「第1次五カ年計画」では、156ある建設プロジェクトのうちいくつかは鉄鋼に関するものだった。鞍山鉄鋼公司は大型圧延工場とシームレスパイプ工場、7号高炉を新たに建設し、湖北の武漢では新たに武漢鉄鋼公司がつくられ、内蒙古のパオトウ(包頭)では、パオトウ鉄鋼公司が新たにつくられた。それらは今日でも、中国の重要な大型鉄鋼企業となっている。

 

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