「一衣帯水」で喩えられる中国と日本
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日本山口県萩から見た日本海。「一衣帯水」ではあるが、古来難所でもあった | 「一衣帯水」とは「一筋の帯のように狭い川・海」を挟んだ親しい間柄という意味である。ところが歴史的に見れば一筋の帯と表現されたこの海は、遣唐使や鑑真和上の例を見れば分かる通り、なかなか一跨ぎで渡ることのできる海ではない。
遣唐使は奈良・平安時代に計19回派遣されたが、生還できたのはほぼ半分である。鑑真和上は12年を費やして海を渡り、754年にやっと奈良にたどり着いた。その後鎌倉時代に元の軍が2度にわたって日本に襲来するが、2度とも海難と台風で撃退されている。それほどこの海は難所であるということができる。しかし文化も人もこの海を無事に渡らなければ大陸との交流はできなかった。日本に伝来した文化は数多くの渡来人や留学僧らが決死の覚悟でこの海を渡って持ち込み、持ち帰ったものである。
シルクロードとブックロード
「ブックロード」とはじめて名づけたのは、農文協の『鑑真和上新伝 おん目の雫ぬぐはばや』の著者の王勇教授であるが、この「ブックロード」は交易の道ではなく文化の道であるとした。
海も砂漠も道はないが、方向さえ間違えなければ自由に行き来できるいわば大道でもある。「シルクロード」ということばは19世紀末ドイツ人地理学者のリヒトホーフェン博士が使い始めたといわれている。これは中国の長安・洛陽とローマを結ぶ文字通りシルクを中心とした交易の道である。ロードといっても道ではなく、砂漠や山地を越えるやはり過酷なものであった。しかしシルクは当時の古代ギリシャや古代ローマにとってそれだけの価値のある交易品である。現在はこのシルクロードを西安からさらに下って、奈良の正倉院を終点と唱える人さえいる。しかし3世紀末には日本=倭はすでに「蚕を飼い、桑を植え、織物を紡ぐ」と『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれている。絹の作り方を知っていたのである。
中国の皇帝に会うために貢物を持っていかなくてはならない。その貢物に対して皇帝は数倍から数十倍の品を下賜する。どのような品が下賜されたかというと、当時世界に冠たる大帝国の皇帝であるから、当然貴重なもの、絹織物とか陶磁器などだった。朝貢する国々の狙いは実はこの下賜品で、時価数十倍にもなるものをもらうために命を賭してやってきたのである。
当時の日本=倭の使節は「倭錦」を皇帝への献上品としていた。「倭錦」とは絹織物である。またその後の奈良時代の遣唐使は、入唐するための渡航費用つまり路銀として全員にこのシルクなどの織物が渡されていた。本の購入だけではなく、写経や仏画の模写を頼めばその謝礼もこのシルクや織物が貨幣代わりに使われた。
シルクはヨーロッパでは古代ギリシャや古代ローマですでに重宝されていたが、絹は羊毛樹という木から産するという伝説が信じられ、その真実を知るのは6世紀半ば、実際に生産されるようになるのは7世紀に入ってからといわれる。アラブ・ヨーロッパの使節のお目当ては、初めから皇帝が下賜するシルクであるが、日本の遣唐使たちはそのシルクを中国国内で売りさばいて換金し、本を買った。
シルクはいくら持ち込んでもそれ以上増えることはなく消費されるのみであるが、例えば本は1冊輸入されれば、書写し復刻し印刷して限りなく増える。そればかりではなく知識として活用され応用され新たな文化を築くことさえできる。つまり本は交易品というより金の卵で、シルクより価値があると考えられていたのである。日本は本から文化を学ぶことができるという自信を深めていく。
遣隋使や遣唐使の派遣の目的は初めから「本」であったという。
日本にはどれほど将来本があったか
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倭国使 『梁職貢図巻』にみる倭国使(左)(農文協石川九楊著『漢字の文明 仮名の文化』) | 891年ごろに成立した藤原佐世の撰になる勅撰の『日本国見在書目録』にある漢籍は、16790巻。これは歴代天皇の書庫だった冷然院が火災にあった後、残っている本を集めて作られた目録である。もちろん貸し出されていたものや、貴族や寺院の書庫にあった本も合わせて作られた目録だが、この冊数は中国の歴代王朝が国の威信をかけて時代時代に作る書籍目録の半分以上に達するという。火災で大半が焼けた後の数字ということは、焼ける前にはいったいどれほどあったのだろうか。
漢字の国、書籍の殿堂であった帝国の本の半分以上あるいはほぼそれに匹敵する本を、中央から遠く離れたいわば東夷の国が保有しているなどということは驚きに値するが、それはとりもなおさず日本の国自体が本気でやらなければできないことであるし、さらに大陸の王朝の側面支援と許可がなければ無理である。
中国と日本は、「一衣帯水」が距離的にも政治的にも微妙な位置関係を保っていた。たとえば中国では禁書となっていたものも入唐僧の将来本にしばしば混じっている。地理書や兵書、地図といったものは、当然陸続きの緊張関係にある国々に対しては禁書であっても、日本向けには一度も禁令を発していないという。
実は、このことが後の時代に中国にとってもプラスとなってかえってくる。すでに中国には散逸して存しないが日本に保存されている本、すなわち「佚存書」の存在である。これこそ日中交流の成果といえるものである。しかしこのようなブックロードの存在を可能にしたのは、やはり日本が漢字文化圏にあり、日本列島の支配層と知識層がなに不自由なく漢字を操っていたからに他ならない。
新天地に持ち込む文化
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倭王武の上表文 『宋書』「倭国伝」より(農文協 石川九楊著『漢字の文明 仮名の文化』) | 海外で長期滞在したことのある人間には分かるが、引っ越す前の準備は並大抵ではない。しかしとくに海外への移住を決心した人間が新天地を想定して荷造りするとなれば、なにを捨てなにを持ち込むかの選択は、最終的には大差がないように思う。
司馬遷の『史記 』の巻118「淮南衝山列伝」によると、徐福という人物が「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と秦の始皇帝に述べ、始皇帝の命を受け、3000の童男童女を率いて東方に船出し、「平原広沢」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。紀元前220年ごろのことである。
この徐福が新天地を目指して旅立つ時に選択したのが五穀百工である。穀物の種と技術者、実に明快そのものである。選りすぐりの先端技術と再生産可能な種、しかも連れて行ったのは童男童女である。望郷の念に駆られるような人間は連れて行かない。
徐福伝説は、日本国中といっていいぐらい各地に言い伝えが残っている。中国でも東渡した出航の地が数多く名乗りを上げているが、しかしいまだに歴史的決着がつかないのは、徐福ほどの人物が当然持ち込んだであろう、「文字」が発見されていないからである。
秦の始皇帝は、紀元前221年全国を統一すると数々の偉業をわずか12年の間に成しとげた。度量衡の統一、貨幣の統一、車幅の統一、万里の長城の建設、阿房宮の建設、始皇帝陵(兵馬俑)の建設と驚くべき事業を行った。だがもっとも評価されるべき偉業は、漢字の統一であろう。それまで地方ごとに異なる字体が使われていたが、これを改め、秦の字体を標準字体として採用した。東アジアはこれ以降、漢字によって結ばれ、文化を共用し、文明を伝えてきた。
その始皇帝を欺いた徐福が、新天地に五穀百工よりなにより漢字や書籍を持ち込まないはずはない。百工を連れて行くより、百巻の書籍の方がはるかに持ち運びやすい。百工はもちろん多くの技術者という意味であるが、たとえ1つの技術につき2人ずつ用意したとしても、病気もすれば怪我もする、飯も食うし夜は眠る。
鑑真和上の将来品について第2回と第6回のリストが『唐大和上東征伝』にある。いずれも経などの仏教関係書が中心であるが、第2回目には漢方薬の材料などが含まれている。鑑真は「医薬の始祖」または「日本の神農」と崇められ、江戸時代まで漢方薬の包み紙に鑑真像が印刷されていたという。『日本国見在書目録』に「鑑上人秘方一巻」が著録されている。
誰から何を学び何を持って帰ってきたか
弘法大師・空海(774~835年)はある意味でマルチ人間といえよう。それまでの単なる学問僧、留学僧とは違い、はっきりとした目的意識を持っていた。
農文協の『日中を結んだ仏教僧』の著者頼富本宏教授は、空海が仏教・密教という宗教情報にとどまらず、現実世界の衣・食・住などの文化全般に関心を注ぎ、高度な唐文化の個別の新要素を積極的に摂取し、宗教以外の世俗文化に対しても飽くなき好奇心を抱いていたと述べている。
嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる空海は、書に関しても書を知り尽くし、その意義を高く評価したからこそ、長安滞在中に書跡・書具を収集した。
王羲之(321?~379?年)「蘭亭碑」、褚遂良(596~658年)「貞言英傑六言詩」、徐浩(703~782年)「不空三蔵碑」、欧陽詢(557~641年)の真跡、飛白の書など、現在の日本の書道の礎になった名家の書跡のかなりの部分が空海の将来品に含まれている。
本来留学僧は20年の留学期間だが、空海はわずか2年で切り上げた。中国語が堪能で機を見るに敏な空海は、あらゆるアンテナを駆使して情報を収集し、青龍寺の恵果(746~805年)から胎蔵と金剛界の両密教の免許皆伝にあたる伝法阿闍梨の灌頂を受け、有形無形の必需品と助言を得た。
実は空海と同じ遣唐使節に最澄(767~822年)がいた。最澄は当初から中国天台の聖地である天台山へ参詣し、現地で研究することを目的としていたため、一行と分かれて台州に入る。天台山では禅の教えを受け、国清寺の惟象から大仏頂大契曼荼羅行事を伝えられた。さらに龍興寺極楽浄土院で道邃から円教菩薩戒を受けたという。日本の仏教はこの最澄と空海あたりから独自の歩みを見せる。仏教だけではなく、日本自体も日本独自の文化を形成し始める。(広岡 純=文 若杉憲司=写真)
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