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「大文字」焼き。京都の夜に浮かぶ五山の送り火。精霊を彼岸に送るためといわれる(石川九楊著『漢字の文明 仮名の文化』より) |
仏教僧は高級官僚
仏教僧が仏教を伝えたということであれば、それは当たり前の話であるが、実は「日中文化交流史」の中で僧が果たした役割はあまりにも大きい。前号で、鑑真和上や空海について述べたように、学問僧も渡来僧も仏教だけを伝えたのではなくいろんなものを持ち込み、持ち帰った。
「ブックロード」を通って持ち込まれた書籍は、書写され回し読みされて、日本の文化を豊かに育くんだのは言うまでもない。ただ鑑真や空海のころの将来本は仏教の経典が主で、仏教を中心とした国造りがメーンテーマであった。日本は国を挙げた写経運動を展開し識字層を増やし、貪欲に中国文化を吸収していく。
ところが鎌倉時代(1180~1333年)になると、禅僧が果たす役割は仏教はもちろん、衣食住などの文化だけではなく政治や経済にまで及ぶ。
京都や鎌倉の五山・林下の禅院は、朝廷や幕府と密接な関係のもと文官政治機構を形成していたと、石川九楊教授は著書『漢字の文明 仮名の文化』(農文協『図説中国文化百華』シリーズ)の中で述べている。禅僧たちは、法務や文化、学術、外交、対中貿易の役割まで担った。
つまり、仏教僧というから仏教に限定して考えがちだが、実際は高度な教育を受けた高級官僚でもあったといった方が適切なのかも知れない。
中国では隋から清の時代まで「科挙」という官僚登用制度があり、しっかりとした文官がいた。
従来の日本史の一般的な説では日本の政治的役割の担い手は神官としての天皇と、その周辺にいる律令官人である公家、そして幕府を中心とした武士の武官、つまり神官と武官しか存在しなかったといわれている。しかし実は、当時の禅院は文官政治機構であったという。
だが、僧の果たした役割はそれに留まらない。支配層と接するのみではなく、庶民にもっとも近い存在であったから、説法はもとより食生活から遊びにいたるまで老若男女に影響を与えた。したがって僧が大陸から持ち込んだ文化は、あらゆるものが瞬く間に広まり、果ては日常のことばにまでしみこんでいったのである。
親鸞と日蓮のことば
学校で「古文」を習い始めたころ、なぜ現代文と古文が違うのか、いつから現代のような日本語に変わったのか不思議でならなかった。おそらくこの疑問をわかりやすく説明できる日本人はそれほど多くはないと思う。
大陸で唐(618~907年)が衰退し始めたころ、菅原道真が630年から続いた遣唐使の廃止を進言する。894年のことである。
遣唐使が廃止されて間もない平安時代中期に、女手といわれる仮名で書かれた『古今和歌集』(905年)が生まれる。
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『日本書紀』
奈良時代に完成した日本最古の歴史書。漢文で書かれている(石川九楊著『漢字の文明 仮名の文化』より) | 『日本書紀』(720年)が漢文で書かれているように、平安中期まで、日本にはまだ日本語と呼べるような言語はなく、疑似中国語が文化を支配していたと石川九楊教授は言う。もちろん一般庶民が日常語として中国語をしゃべっていたということではない。庶民は「原日本語」とでも言うべきことばをしゃべっていたが、それを記録する文字がなかった。日記文学の『土佐日記』(935年)や1000年過ぎに書かれた紫式部の『源氏物語』によって初めて、新しい文字・文体・文学が誕生する。私たちが学校でお目にかかる「古文」とは、このころの文章なのである。
ところがこの日本語も中世・鎌倉期に大きく変貌する。東アジアにモンゴル帝国が勃興し、やがて中国大陸に元朝(1271~1368年)が成立する。その支配を嫌った宋の知識階級の一部が日本に亡命してくる。
新しい宋の言語と語彙、文字と文学と学問を携えて大陸から渡ってきた禅僧によって、日本に臨済宗が起こり、鎌倉五山・京都五山が成立する。禅は、宋時代の学問と知識を象徴するものであり、宋学そのものである。禅院は、儒教・道教・仏教を区別なく学ぶ、三教一致の学習機関で、当時の中国では科挙の受験生や落第生、さらには左遷されたり、退官した官僚たちの集まる場所であったという。そのような宋の学問が、平安時代の中国語とは異なった新しいことば・宋語として生活習慣とともに日本にどんどん入り込み、新たな日本語が形成されていく。
この言葉が親鸞や日蓮の鎌倉新仏教によって民衆にもたらされ、漢語が民衆の中にまで入り込んでいったという。
「五濁悪世ノ衆生ノ、選択本願信ズレバ、不可称不可説不可思議ノ、功徳ハ信者ノミニミテリ。……」(親鸞『和讃』)といった七五調のリズミカルな節をつけて流布し、浸透していく。
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