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かつて郁達夫が暮らしていた尚賢坊 | 嘉禾里と郁達夫
1927年、作家の郁達夫は霞飛路(今の淮海中路)尚賢坊で当時20歳の王映霞と出会った。二人は互いに一目惚れし、恋に落ちた。彼らの恋は一時、文壇にセンセーションを巻き起こした。二人は結婚後、常徳路81号の嘉禾里1476号に移り住んだ。現在、嘉禾里という場所は存在せず、表札を頼りにたどり着いた81号の里弄も、広々とした工事現場となっていた。かつての彼らの生活は、郁達夫の残した作品の世界から読み取るほかはない。
「家賃は1カ月8元……室内の造りは極めて粗末で、電灯や扇風機といった文明的な器具はない……周囲に漂う墓地のようなこの静けさは、にぎやかな租界の近くにあって、お金を出したからといって買えるものではない。そんな静寂の中、一切の物音、一切の動きが停止したかのようなひとときにうたた寝していると、この十数年間の様々な出来事が、はっきりと、次々に、瞬く間に脳裏に浮かんで来る」(『灯蛾を埋葬する夜』より)
嘉禾里で、半ば隠居のような清貧の生活をしていた郁達夫は、あちこちをぶらぶらするのが好きで、しばしば奥さんを連れて付近を散歩したり、人力車に乗って出かけたりしていた。王映霞は何に対しても興味津々で、道々しきりにあれこれと尋ねる。そんなとき、郁達夫は大人が子供に言い聞かせるように、辛抱強く説明した。
名家の令嬢であった王映霞は、家事が苦手であった。そのうえ台所仕事に追われて忙しい時に、郁達夫は自分の書いた詩の言葉の響きの善し悪しについて尋ねては彼女を煩わせ、混乱させた。そんなとき、郁達夫はいつも「君は実に教え甲斐がある」と皮肉にも聞こえなくもない言葉で、家事に勤しむ彼女を励ますのだった。
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現在、四明村に暮らしている人の多くは上海の庶民である | 四明村と徐志摩
四明村は常徳路に接している、典型的な上海の新しいスタイルの石庫門の路地である。思想家の章太炎やインドの文豪タゴールも、ここに足跡を残している。詩人の徐志摩は、ここで人生の最後の日々をすごした。二番目の妻、陸小曼と結婚した後、ここに引っ越してきた。仲睦まじく幸せな時期もあったが、二人は喧嘩が絶えなかった。陸小曼の浪費癖のため、徐志摩が地方都市に赴いてまで教師のアルバイトの口を探しまわってやりくりしても、常に負債を抱えた状態から抜け出せなかったからである。
1931年の年末、徐志摩は十数通に及ぶ陸小曼からの電報に急かされ、地方から上海に戻ってきた。彼が繰り返しアヘンをやめるよう言いきかせても、陸小曼はかんしゃくを起こすだけだった。やがて、我慢できなくなった徐志摩は、とうとう家を出て飛行機で北京に向かったが、彼の乗った済南号は山に衝突して墜落。徐志摩は、36歳の若さでこの世を去った。
このほか、民厚里という里弄には、中国文学史上赫々たる著名人である郭沫若、施蟄存(作家)、張聞天(政治家)が暮らしていたこともある。また恒徳里は1920~30年代に名をなした明月という劇団が拠点としていた里弄で、周璇、王人美などの当時の芸能界の大スターたちもまた、ここから巣立っていった。いつの時代にも綺談に事欠かない。それが常徳路である。
人民中国インターネット版 2009年11月
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