遼・金王朝 千年の時をこえて 第10回

宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に北京は初めて国都となったのである。新連載では、私が長い時間をかけて探し求めた遼・金遺跡にまつわるエピソードを、写真とともにお届けする。

西京の彫刻芸術

雲州(現在の山西省大同)は、契丹が「燕雲十六州」に侵攻した後、938年に契丹領となったが、西京(西の首都)と名付けられたのは、1044年のことであった。これは当時、西南国境付近で、急速に勢力を伸張し始めた西夏に対する対応策であった。遼王朝の五つの行政区の最後の首都と位置付けられる西京は、すでに征服された諸州のみならず、今日の内蒙古西部や華北の大部分をも管轄していた。この一帯は多民族地域であったが、漢族人口が大多数を占めていた。

下華厳寺の薄伽教蔵殿。山西省大同

西京は、宋朝や北西部の諸部族との関係を司る重要な外交拠点であり、また、経済、文化の中心でもあった。そして遼の西京はその後、引き続き女真族の金王朝の西京となった。宋からの朝貢の銀を西京の太守に届けた使節の一人は人質に取られ、大同に13年滞在したのだが、自ら刻んだ石碑には、西京での生活や寺院の修復、再建の模様が書き記されている。

西京はかつて北魏(386~534年)の首都であったが、鮮卑族は仏教を奨励し、郊外に、壮大な雲崗石窟を建造した。遼と金の時代にも朝廷が仏教を後援する伝統は受け継がれた。雲崗石窟にさらに多くの仏像が彫られ、市中にも多くの寺院が建てられ今日に至っている。現存する三つの大寺院は、西京の芸術水準の高さを今に伝えている。これら寺院の傑出した建築は遼金時代の最高峰といえるが、私自身の評価としての真の傑作は、お堂の内部に安置された一群の彫刻である。

菩薩像―下華厳寺薄伽教蔵殿の29体の遼朝塑像

善化寺三聖殿の中心にある仏像。金代

1984年、初めてこの地の旧跡を訪れた時、私は当時まだ薄汚れた炭鉱の町に生き続けている仏像の美しさに圧倒される思いであった。今や大同は都市の再生と大気汚染の抑制に多大な努力を傾注している。寺院は現在、文化広場の中心部にあり、仏像たちも格段に良い条件の下で見ることができる。今年の5月、ライラックと桃の花が真っ盛りのころ、私は立派に保存されたお堂を歩きながら、これらが契丹と女真王朝の庇護の下に作られたことを、どれだけの人が知っているだろうかと考えたものだ。

一つの手がかりは、遼時代の華厳寺の伽藍が太陽の昇る東に面していることで、これは契丹の儀式の重要なシンボルである。この壮大な寺院は、明代(1368~1644年)には上院と下院に分けられていた。本堂(大雄宝殿)は金代に修復されたものであるが、初期の中国仏教建築として、最大である。巨大な屋根と広大な内陣は今日でも驚くべき傑作といえよう。下華厳寺の薄伽教蔵殿は1038年、遼興宗の命により建設され、凝った作りの大きな壁蔵の中に5000巻の経文が保存されている。しかし、私の目を釘付けにしたのは祭壇であった。そこには29体の遼朝塑像が、あるものは座り、また、あるものは立ち姿で、息を呑むような最高芸術の極致を醸し出していた。私は柔和な表情、伸び伸びした肢体、そして見事な衣裳に包まれた優雅な姿にただ目を見張るばかりであった。塑像たちは生き生きとしており、私は契丹の美女を見ているような錯覚にとらわれていた。

月宮天子像。金朝塑像二十四諸天の1つ。善化寺本堂(出典・竹島卓一著『遼金時代の建築とその仏像』、1944年)

善化寺三聖殿―遼時代の創建。金によって1128年に再建。見事な扇形の腕木のある一重の屋根に注目

もう一つの重要な寺院は善化寺である。唐代の寺の境内に遼王朝が建てたもので、11世紀以降に建てられた本堂だけが現存している。山門と三聖殿は1128年に金王朝によって再建された。普賢殿は1950年代に再建されたものであるが、独特の建築様式は遼時代の特徴を備えている。三聖殿の堂内は一重の屋根の下に扇形をした壁のある、なかなか趣のある造りになっている。ここでも私の関心を引いたのは内部の仏像群であった。三体の大型の塑像の傍らにしとやかな風情の脇待菩薩が配置されている。この菩薩像は金代の彩色塑像としては非常に珍しい逸品である。

なかでも本堂の彫像がひときわ魅力的であった。美しい光背を持つ五方仏はそれぞれが恭しく侍立する菩薩像に両側を守られている。さらに24諸天(その中にインドの神もみられる)という神々しい立像が一つ一つ個性的な表情と姿勢をとっている。幸い私は日本の学者、竹島卓一氏が1930年代に撮影した一組の写真を持っていた。白黒の画像は衣裳の襞や冠や装飾品の細部を際立たせている。

華厳寺の釈迦牟尼石像(南堂寺より移されたもの)。大同の遼彫刻の優しさを有する

これらの壮大な寺院や多数の仏像の傑作を見るにつけ、遼金時代の西京の繁栄ぶりが目に浮かぶようである。西京は単に帝国の西端の軍事拠点としての役割を果たしたのみならず、むしろ、高度の文化を誇った活気に満ち溢れた城市であったのだ。このことからも当時、仏教がいかに崇拝されていたか、そして芸術作品が為政者にとっていかに重要な権力の象徴であったかを理解することができる。しかし、おそらくもっとも重要なことは、これらの彫刻群が伝える時代の精神の輝きであり、今なお堂内に漂う往時の空気そのものであると言い得よう。

 

人民中国インターネット版 2009年12月1日

 

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