文・写真=張春侠
中国西南部の重慶市は、「山城」とよばれる坂道の多い町であり、また豊かな歴史文化を内包する町である。時の流れにつれ、都市の風貌は変わり、多くの歴史の痕跡が失われているが、曽家岩50号は当時の風貌を保っている。
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繁華街にある曽家根50号 |
建物の前の周恩来像 |
1985年、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』は、アメリカの『タイム』駐中国戦場ジャーナリスト、テオドール・ハロルド・ホワイト氏が40年を経て再び重慶に戻った感想を述べたエッセイを掲載した。「革命は重慶に巨大かつ深刻な変化をもたらした・・・・・・かつて我が家とみなしていたこの都市で、いま私が見出せるのは、ただ2つの場所のみである。一つは狭く、暗い、周恩来がかつて執務に使っていた共産党党部、ここは私がよく行き来していた場所である。もうひとつは、かつての城壁のなかでただ一つ残された“通遠門”で、よく保存されている」。文章のなかに記された周恩来の執務室であった共産党党部は、すなわち曽家岩50号であり、また「周公館」とも呼ばれる。
当時の重慶には「三岩」という言い方があった。中国共産党中央南方局機関および八路軍重慶弁事処の駐在地は「紅岩」と呼ばれた。周恩来の重慶の執務および居住地である「周公館」は「曽家岩」である。中国共産党の国民党統治区における唯一の公開出版物である大型政治機関刊行物『新華日報』の拠点は、「虎頭岩」であった。それらは、中国共産党の国民党統治区における活動の中心および主な陣地であり、あわせて「紅色三岩」と呼ばれた。
「紅色三岩」のなかでは、曽家岩50号がもっとも神秘的色彩が強く、中国人においても外国人の目から見ても、神秘さと魅力をたたえている。
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当時の困難な生活および執務環境 |
参観者に当時ここで活動した革命者について紹介するガイド |
曽家岩50号は、渝中区中山四路にあり、三階建てのビルであり、2つの中庭があり、中国式と西洋式が融合された建築様式である。1938年の冬、中国共産党代表団は武漢から重慶に移動した。公務のため、周恩来は、個人の名義でこの建物を借り、それは中国共産党南方局の市内の主要な執務室の一つとなった。
小さな建物は、通りの一番奥にあり、右側は、国民党軍統局局長、戴笠の公館であり、左側は、国民党警察局派出所である。ビルのなかでは、中国共産党代表団が1、3階を借り、2階の大部分は、国民党人士の住まいであり、まさに左右、内外とも囲まれていたことになる。
2階と3階には、董必武と葉剣英のそれぞれの執務室だった。1945年8月、毛沢東同志が重慶を訪れ、蒋介石と談判した期間には、低層の会議室で、中外各界の人士に接見し、周恩来はさらに頻繁にここで各界人士とおよび中外の記者と会っていた。
アメリカの著名な中国問題研究家である費正清氏は、当時の曽家岩50号の「周公館」は、「共産党人士と、国民党人士、それにスパイで構成されたサンドイッチだった」とユーモアを交えて語っている。『ニューヨーク・タイムズ』ジャーナリスト、駐中国外国ジャーナリスト協会会長であるアーキンソン氏は、「曽家岩は、神秘的な建物だ」という。
人民中国インターネット版
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