遼・金王朝 千年の時をこえて 第12回

宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に北京は初めて国都となったのである。新連載では、私が長い時間をかけて探し求めた遼・金遺跡にまつわるエピソードを、写真とともにお届けする。

西京道の辺境を探訪

山西省霊丘県の覚山寺白塔の前に立つ演悟住持 白塔の壁面を飾る獣面彫刻の細部

遼・金時代の西京行政区は、現在の山西省北部、内蒙古自治区の一部そしてわずかではあるが、河北省の辺境を含む広い地域であった。多くの遺跡から発掘された工芸品の類は、都から遠く離れた地方においても、相当高いレベルの文化が存在したことを示している。大同の博物館には、主として陵墓から発見された陶器や青銅の鏡などが陳列されている。私たちが自分で発見できるのは、遼・金時代から生き残っている寺院や塔である。今回は、人里離れた僻地に現存する寺と塔を紹介することとしたい。

     ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖  ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖  ❖ ❖ ❖

覚山寺のそびえ立つ白塔は、山西省霊丘県城から15キロ程離れた谷間に隠れている。この場所は山の尾根の背後にあり、また近づくのが非常に困難なため、今日まで存在し続けたのであろう。演悟住持が案内に立って、寺の歴史を語ってくれた。その説明によると、覚山寺は北魏時代の5世紀に建立された。1090年に至り、遼の官吏が狩猟の途次、偶然ここに辿り着き、荒廃した寺のありさまを道宗皇帝に報告したところ、皇帝は土地と金銭を下賜して寺を修復し、さらに高さ53メートルの八角塔を建立したと伝えられている。塔の壁面は仏教の代表的図像で装飾され、楽士、踊り手そして獣面も彫られている。塔の内部には貴重な遼代の壁画が残っている。演悟住持は、小さい丘の上に立つ小ぶりの塔を指さし、やはり遼時代に造られたものだと教えてくれた。そんな昔に、この荒れ果てた土地で僧たちはどうやって生き延びたのかと尋ねると、和尚はここの井戸水は潤沢で、清潔だからと答えた。

1114年に鋳造された閣院寺の鐘。遼代の鐘としては唯一年代が確定している

河北省淶源県の閣院寺文殊殿と「龍鳳」という名の古樹

     ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖  ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖   ❖ ❖ ❖  ❖ ❖ ❖

もう一つの遼遺跡は、河北省にある閣院寺で、太行山山脈中の源県(旧名・飛狐県)に位置する。隣接する易県より600メートル程も高地にあり、西京道に組み込まれていたので、河北より山西との関係が深い。私が午後の遅い時間に到着した時は、もう中に入れないのではと心配だったが、運良く境内には裏門から簡単に入ることができた。源県文化保護局の安致敏局長を訪ねると、すぐに文殊殿に案内してくれた。この長方形のお堂は966年に造られ、中国に現存する最古の遼代木造建築である(独楽寺の観音殿より20年ほど早い)。

堂前面の遼代の格子模様の細部

石柱の刻文を指す安致敏局長

文殊閣の内部にある1167年に描かれた金代壁画の一部。

安局長が読んでくれた石柱の刻文には造営の日付と勧進元である李彦超についての記述があり、それによると李彦超は唐代から続いた漢族の名家の出身で遼朝政府の官吏となったという。安局長は、次いで木製の窓の格子模様に私の注意を向けさせた。そこには1000年以前の小さな塔や人物の様子が彫刻されていた。堂内には、わずかながら壁画が残っているのが見えた。その中で特に目を引いたのは、鮮やかな彩色の衣と金箔の飾りをつけた菩薩像であった。境内には1114年に造られたという珍しい鐘があるが、これは年代が明確にされた遼代唯一のものである。鐘の表面には、遼朝最後の皇帝天祚帝(在位1101~1125年)の長寿を祈って鐘を造った僧たちの名前が刻まれている。幸運にも、その澄んだ美しい音色は今も人の心をなごませてくれる。

 

1   2   >>  

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850