所在を見つけるのにもっとも苦労したのは、五台山地区にある1158年建立の岩山寺であった。私は五台山への道をたどりながら、幾度も地元の人たちに岩山寺の場所を尋ねたが、誰もその寺の名を知らなかった。仕方なく、私は元来た方向へと引き返し、五台山山峰の北側の麓を流れる川沿いの道を進んでいった。幸いなことに、やっと、ある村で道案内に立ってくれるという人を見つけることができた。しかし寺内に入る許可を役所からもらっているかと尋ねられた時は、いささか不安な気持ちになったものだ。「錠がかかっているのはご存知でしょう」とその人は当然のことのように言ったものの、私の表情から察したらしく、鍵を保管している人を探してあげようと言ってくれた。はたして天岩村に着くや彼は車から飛び降り、五分後には村の拡声器から、大声で「老范! 外国の女性が寺の門前で待っているぞ」という放送が聞こえてきた。
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山西省天岩村岩山寺の全景 |
岩山寺の扉を開ける王さん |
私は寺の外で待ちながら、村の広場の様子や古い樹々、そして北の方向に五台山を望む、日焼けして赤色になった寺の壁を眺めていた。しばらくすると突然、雲行きが怪しくなり前途が暗くなってきた。老范の細君が現れて、夫は外出中で今日は戻ってこないと宣言したからだ。こんなことでは諦められないと言うと、彼女は何とか方法はある、寺の管理人に頼んでみようと言ってくれた。私が岩山寺に期待したのは、幾世紀もの間に修復を繰り返してきた寺堂ではなく、文殊殿に残っているはずの金代の極めて貴重な壁画を見ることであった。管理人の王さんは余り乗り気ではなく、鍵を探すのは大変だなどと言い始めた。ここでも私は一歩も引かず、わざわざ遠方から訪ねてきたのだから、今さら引き返すことはあり得ないと頑張り続けた。押し問答の末、私が急ごしらえの祭壇にいささかの寄進をした霊験があらわれ、鍵もその姿を現した。
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1143年建立の山西省朔州市崇福寺の弥陀殿 |
崇福寺弥陀殿で行われた釈尊誕生祭 |
「写真撮影は禁止する」との警告の後に王さんはいくつもの錠前をはずし、やがて門扉がきしみながら開かれた。内部には極楽浄土を描いた目を奪うばかりの鮮やかな壁画があった。この壁画は1167年、金朝の宮廷画家王逵と王道の手に成るもので、中都(北京)の宮殿に擬して浄土をイメージしたようである。二人は宮廷の職を辞した後、故郷に戻り、10年かけて寺の堂内に首都での生活の記憶をもとに描いたのであろう。おかげで私たちは、金・宋風の壁画の逸品に接することができるのみならず、北京の往時の建築に関する貴重な記録を目にすることができる。濃い絵具と金箔を使った繊細な線は急傾斜の屋根を持つ堂宇や、仏陀や菩薩の衣裳の飾りを強調している。画の中には、金朝の貴族の宮中生活と共に、一般市民の日常生活も描かれている。いかにしてかくも素晴らしい絵画がこんな寒村に900年以上も生き残っていたのか、私はただ驚くばかりであった。
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私は、引き続き大同の南130キロにある朔州市(燕雲十六州の一)の古い県城へ旅を続けた。986年、承天太后の率いる契丹軍は、朔州に進軍し、勇猛で鳴る宋の将軍楊継業を虜にして、宋軍をこの地から追い出した。県城の城壁の中に、崇福寺の大規模な伽藍が今なお残っている。唐代の建立で、金時代に再建されたこの寺は、金の海陵王完顔亮によって現在の名を付けられたと伝えられる。崇福寺は今でも参拝客が多く、私が訪れた旧暦4月8日は釈迦の誕生日で大変な賑いであった。物売りたちは線香を売り、手相観は寺までの道へ見台を並べており、まさしくお祭りの気分が横溢していた。
壮大な弥陀殿は、金代の1143年、高さ2メートルの基台の上に造営されたもので、その日も信者が押しかけていた。外では群衆が香をたき、地に額をつけて祈っているのが印象的であった。緑と黄色で彩色された龍の鴟尾(高さ3.2メートル)のある古色蒼然とした屋根が信者たちの後方にそびえていた。しかし何と言っても私を感動させたのは、設計の妙によって創り出された内部の広く高い空間である。この巨大な堂宇には、壁を背に並ぶ仏像に祈りを捧げる多勢の信者の姿があった。色褪せた壁画が過去との絆を物語っている。堂内に響きわたる読経を聞きながら、私はこれこそ創建者が願ったものであったろうと感じた。寺の住持が法要を執り行っている間、線香の香が堂内に漂うさまはあたかもタイムスリップして12世紀に戻ったようであった。
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遼・金時代の西京地域に残る美術、工芸品の重要性はさまざまな角度から考えることができよう。建築様式を研究し、それを支えた人々の歴史を調べるのも一つの方法であろう。しかし寺院や塔の持つ本当の重要性は、このような辺鄙な地にあっても、生き続けてきた、その圧倒的な存在感にある。
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