劉世昭=文・写真
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外城の関帝廟(左)と文昌閣(右) |
甘粛省西北部に位置する嘉峪関は、南は真っ白な雪をいただく祁連山と、北は連綿と続く黒山に挟まれた幅15キロのゴビ砂漠を横切っている。その険しい地勢から、「河西回廊第一隘口(関所)」と呼ばれている。
嘉峪関は明代の洪武5年(1372年)に建造が始まった。西麓の嘉峪山にちなんでこの名がついた。嘉峪関の位置する河西回廊(黄河の西側、甘粛省の西北部の細長い高地)は、シルクロードに通じている。シルクロードの要衝である酒泉があり、果てしない草原とゴビ砂漠が広がっている。
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嘉峪関の三重の城郭は城 内で三重の防衛線となっている | 自然条件に恵まれ、交通の要所にあったことから、早くは漢の時代(紀元前206~220年)に関が設けられ、山勢険要を背に外敵から防衛した。明王朝が成立すると、河西の軍事防御が強化され、ここに関を建造し、西への交通の要路をコントロールすることになった。嘉峪関はその建設開始から強固な防御を固めるまでの工事を進めた160余年間に、「初めに水があり、のちに関を置き、関ののちに楼を建て、楼ののちに長城を築き、長城を築いてのちに守るなり」(『秦辺紀略』)というプロセスがあった。明の嘉靖18年(1539年)、再び土木工事が進められ、関が補強され、敵楼、角楼などが増築され、さらに関の南と北に延びる両翼のような長城と狼煙台などが築かれた。こうして、巨大な規模の、雄大で険しい関所がゴビ砂漠に築かれ、シルクロードの喉元である要路をしっかりと守っていたのである。
嘉峪関は内城、瓮城、羅城、城壕、三つの三層の城楼及び南北に延びる長城と狼煙台などからなっている。関の建造は戦争の防御に備えたもので、三重の城郭が、城内にさらに城があるように三重の防衛線を形成し、敵が攻めてこようとも、関は堅固で城の守りは万全であった。
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関帝廟にまつられている関羽。右は息子の関平、左は周倉 | 嘉峪関の外城は、もともとにぎやかな町であった。時とともに、いつしか住む人もいなくなり、民家もほとんどが壊れ、明代に建築の始まった文昌閣と関帝廟が残されているだけである。文昌閣は明の時代には文官の事務所であり、清の時代には文人が読書をするところ、現在の学校のような場所となっていた。
関帝廟に祭られているのは、関公という尊称で呼ばれる三国時代の蜀の名将関羽である。中国では、関羽は「信義忠節」の手本とされ、歴代の皇帝に表彰され激励を受け、儒教、仏教、道教共通の尊びあがめられる対象となった。また関羽は武将の神としても尊ばれたため、要衝である嘉峪関には関帝廟が建てられ、士気を高める作用をもたらしたのである。当時、ここに駐屯していた兵士の多くは関羽の故郷である山西解州の出身で関帝を信奉していたため、関帝廟にふるさとを恋しく思う気持ちを託し、心のよりどころとしていた。ここに西北地区最大の関帝廟があるのも、不思議なことではない。
東側から光化門をくぐって城内に入ろうとすれば、光化門の中に西側にある柔遠門が見える。この二つの門の名前はそれぞれ「紫気東昇、光華普照」「懐柔致遠、安定西陲」という言葉によせて名付けられたものである。内城には、明の隆慶年間(1567〜1572年)に建てられた当時駐軍の最高司令官の住居及び執務の場所であった遊撃将軍府が、現在にいたるまで残っている。遊撃とは当時の官職名であり、武官三品に相当し、嘉峪関の地位がいかに重要なものであったかがわかる。関内のそのほかの場所には、かつては多くの兵舎があり、史料によれば、当時ここに駐屯していた兵士は2000人余りで、みな城内に居住していた。城外にはさらに4000名余りが駐屯していた。今や嘉峪関は荒れ果て、そうした兵舎はもはや存在せず、がらんとした土地が残っているだけである。
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内城の遊撃将軍府 |
東側にある光化門を通して柔遠門が見える |
城壁に上ると、嘉峪関の城楼建築に、大量の黄色い瑠璃瓦が使用されていることに気付く。中国ではかつて黄色は皇帝の一族だけに許された尊い色とされ、皇帝の宮殿及び皇家の寺院はみな黄色い瑠璃瓦でその屋根を覆っていた。明代、清代にはさらに明確な規定があり、一般庶民が勝手に黄色を使用すれば死罪となった。この西陲のあたりの関の城楼は、屋根が黄色の瑠璃瓦で覆われ、 屋根の一番上の部分、大棟の両端にある鴟尾の位置にはやはり皇帝の印・龍が置かれている。このことからも、明代、清代の統治者がここをいかに重要視していたかがわかる。 嘉峪関から南北に延びた長城は、明代の嘉靖18年に建造が始まり、1年がかりで完成した。長城に沿って南に進んでゆくと、道中の長城はすべて土、砂、石の層をそれぞれ固めて築いたものである。600年あまりの風食を経て、そのかつての雄大かつ偉大な姿は見られず、目の前の長城はまるで、大自然が風という道具を使って、顔中皺だらけの老人を彫刻したかのようであった。
強い風が吹き荒れる中、長城のそばの砂漠にいるのは、草を求めて歩き回っている羊たちだけだった。7キロあまり進むと、長城は討頼河の断崖でぷっつりと途切れ、一番端の部分には台が築かれている。ここが、長城の最西端である。そのため、人々はここを「万里の長城第一墩(墩は台のように土を盛り上げたもの)」と呼ぶ。断崖に立つと、足元の80メートルほど下には討頼河のゆったりとした流れ、顔を上げれば真っ白な雪に覆われた祁連山が見える。ここが嘉峪関長城の防御システムにおいて非常に重要であったことは、一目瞭然である。
北側に延びる長城に沿って、また7キロあまり進むと、長城は黒山の中腹を登ってゆく。このあたりのおよそ750メートルを、人々は「懸壁長城」と呼んでいる。黒山の山頂に立ち、嘉峪関と両翼の長城から構成されている古代の防御システムを俯瞰すると、列を成した勇ましくたくましい戦士たちが、そびえ立つ二つの山の間で両手を広げ、しっかりとシルクロードの喉元である要路を守っている姿に見えてくる。
人民中国インターネット版 2010年2月23日
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