【いかに玉器を彫り刻んだか】
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良渚の先祖は5千年前に非常に硬い玉器を彫ることができた | 古典の記載によると、良渚からそう遠くない天目山の余脈に玉石鉱があるという。だが「玉、磨かざれば、器とならず」。金属の道具や機械、動力も何一つなかった時代に、良渚の先祖たちはいかにして玉器を彫り刻んだのだろうか?
良渚博物院では、生き生きとした泥人形によって、当時の玉工房の様子を再現している。玉の職人はまず玉の原石を切断する。2人の職人が原石をしっかり固定させた後、硬い石英砂を原石の表面に敷いて、左右から弓に張った縄鋸を交互に引く。「柔を以って剛に克つ」、こうして薄い玉片に削る。摩擦熱で縄が燃えて切れてしまわないように、一人が様子を見ながら縄鋸に水をかける。同じ墓から発見されたセットになっている玉璧、玉管などは、質も色も近く、寸法や割れ目がぴったりと合うところから、このような玉の切断技術が裏付けられた。玉の巧みな技法によって、生産効率や完成品の比率が向上したお陰で、多くの玉を生産できるようになった。したがって多くの権力者の墓から数百点の玉器が発見される。
良渚の先祖たちの玉の彫刻技巧も人々から大いに評価を得ている。良渚玉は器具の型が多く、彫刻がきめ細かく美しい。すでに陰刻、浮き彫り、すかし彫りなどの技法をあみ出している。とくに、玉琮や三叉形の器具上の神の紋章や装飾はとりわけ精緻である。あるものは1ミリの空間に3、4本の線を刻んでいて、5000年前の玉彫りの職人の優れた腕前がうかがえる。
良渚の先祖の彫刻道具について、硬い石英石で作った錐だと考える人もいるが、反山などの墓から発見されたサメの歯も玉彫りの道具だと思う人もいる。劉さんは新しいサメの歯での実験を通じて、サメの硬い歯が玉を処理できることを証明した。
【良渚文化の広がり】
「玉琮王」「玉鉞王」をはじめとする美しい形や豊かな深みを兼ね備える玉の礼器は、良渚文化が当時の中華文明の中で、レベルがもっとも高く、思想の次元も先端をいく文化であることを示しているというのが、考古界の共通認識である。
しかし、不可解なことに、千年あまりの繁栄の後、良渚古国はほぼ一夜にして忽然と消えた。これに関して学術界にはさまざまな仮説がある。ある人は、良渚一帯は川に臨んで海に近く、地勢が低いため、大洪水に見舞われて流されたと推測する。また、ある人は貴族統治者が大いに工事を行い、贅沢の限りをつくして、国力が消耗し、最後は中原の炎黄部族に破れ、中華民族に溶け込んだと考える。
しかし、「良渚文化」が代表する玉の文化は消えてなくなったわけではなかった。最盛期にしだいに南北各地に広まった。とくにもっとも良渚文化の特徴を有する玉琮とその神の紋章の図案、王権や軍権を象徴する玉鉞などが、北方の河南省、山東省、山西省、陝西省、甘粛省、そして南方の広東省や西南の四川省広漢市の三星堆、成都市の金沙などの遺跡から次々と発見された。つまり、夏、殷(商)、周の三代の王朝に受け継がれた。周の武王は左手に鉞を挙げて、民衆を率い殷の紂王を討伐した。中華民族がさらに大きな時空を得ることによって、長江下流に輝いた良渚文化に触れることができたのである。
人民中国インターネット版 2010年2月23日
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