遼・金王朝 千年の時をこえて 第13回

 

宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

中京──栄華の夢の跡

西側の城壁跡から中京遺跡を望む。大塔(左)と小塔が外城跡に建っているのが見える

2001年の夏、私は北京の北方300キロ辺りの国道を走りながら、この道路のどの部分が遼時代の南京と中京をつなぐ幹線道路であったろうかと思いを巡らせた。契丹の人々が1000年前にこのルートを使っていたことは間違いない。

現在の内蒙古自治区寧城市の西方15キロの所に、遼王朝がもっとも栄えていた時代の政治、交易の中心地―中京の遺跡が今も残っている。私はトウモロコシ畑の中をかき分けながら、当時の城壁の遺物を探した楽しい思い出がある。

2009年6月に再訪した際、遺跡はしっかりと保護されており、遼の五京の中でも、もっとも知名度の低い中京跡の周辺には幸い高層ビルの影もなかった。

大塔壁面彫刻の細部。大日如来の手は、精神界と物質界の一致を象徴する「知見印」を結んでいる

小塔の壁面彫刻の細部

遼にとって、新都を建設する直接の動機になったのは、1004年の宋との戦いで大勝を博したことである。遼の20万の軍勢は南進して宋の領土を侵し、その結果、宋が休戦を求めて「澶淵の盟」が結ばれ、両国間に長期の平和が実現した。この盟約で宋側は、使節の相互派遣と共に、毎年銀10万テールと絹20万匹を遼へ朝貢することを受け入れた。何よりも、この「澶淵の盟」の重要な意味は、これによってもたらされた平和が、遼の国内建設を大いに促進したことである。新しい首都建設の第一歩は、宋の使節を受け入れることができるよう、遼の上京(現白林左旗)との交通の便の良い所を選ぶことであり、遼聖宗(在位982~1031年)は、新首都は上京と南京(燕京、現北京)を結ぶ幹線上に位置し、さらに東京(現遼陽)にも直接通じる所に建造すべきと決定した。慎重な検討の末、聖宗は1007年、中京の建設に着手した。

中京は唐の都市計画に倣って城壁に囲まれ、王族の住む皇城と宋の様式を取り入れた市場のある内城、そして契丹特有の契・漢のそれぞれの居住区を有し、毛皮の天幕を張る広い草地もある外城から成っていた。工事のため燕京から技術者や人夫が集められた。聖宗の皇后も設計用の模型作りに貢献したと伝えられている。この大造営は、言うまでもなく宋から貢がれる銀によって賄われた。

私は南側の外壁の遺跡に登り、今は畑と農家の点在する空間を眺望しながら、往時の様子を思い描いた。土を固めて作った外壁の周囲は縦、横、それぞれ4キロと3.5キロある。南の正門であった朱夏門跡の草におおわれた丘に立って、私は北に向かって都の中心を走る幅64メートル、長さ1500メートルにおよぶ大通りを眺めた。この大通りは、まず漢族の居住区を通り抜け、その先には東西に市場(廊舎)があった。多くの寺院や外賓用の宿舎もこの外城内にあり、今でも墓石が残っている。中央部にはかつては幾層もの壁があり、それには100メートル毎に塁壁が設けられていた。これが内城である。陽徳門を抜けて、さらに北へ進むと皇城に至る。この城中で、契丹人は伝統的な天幕に暮らしていた。第3の城壁は目には見えないが、地面にその痕跡を残していた。この城壁が皇宮を擁する皇城の輪郭を形取っている。城壁の門は、開封の美しく飾られた楼閣を模したものといわれるが、今ではその威容を想像するしかない。

半截塔(1057年建立)は、外城外の南西方向に位置する。左後方に見えるのが大塔

中京の南門―朱夏門跡

中京は、大明城とも大定府とも呼ばれるが、遼王朝の最盛期の皇帝、聖宗、興宗、道宗が毎年、相当の期間、中京で過ごしていたため重要な政治の中心地となった。

中京では、仏教も手厚く保護され、道宗が1日に3万人の僧に食事を供したことや、同じ日に2000人が剃髪して出家したことなどが記録に残っている。そして、今も昔を偲ばせる3つの塔が現存している。11世紀に建造された大塔(別称大明塔)を訪れた時、塔の周囲を数人の巡礼が回っていたが、遼・金時代のもっとも高い(80.3メートル)塔の下で、子供のように見えた。八角型塔の全ての壁面には精巧な仏像の彫刻がほどこされている。1908年、東壁面の大日如来を見た日本の考古学者、鳥居龍蔵は、契丹族も密教を信仰していたことを発見し、大いに感動したと書き残している。

城壁の外にある、もう一つの遼代の塔は、上半分が地震で崩壊したため、半截塔と呼ばれており、地元の人々が塔の台座に気ままに腰を下ろしておしゃべりをしているところであった。この人々は蒙古族であるが、モンゴル語を話すことはできないと言っていた。彼らの顔に契丹のおもかげを求めようとしたが、長い間の定住生活のため、遊牧民の精悍さのかけらも認められなかった。

後年、女真金が1122年に中京を攻め陥し、1153年にはこの地を金の首都の一つとして「北京」と命名した。多分この時期のもっとも興味深い逸話としては、北宋の2人の皇帝―徽宗と欽宗がこの中京に数カ月、幽閉されたことであろう。

この古い都は、漢と契丹の人々がそして交易と文化が自然に調和し、融け合う場所であった。注意深くこの辺りを探せば、陶器の破片や遼、金、宋の貨幣が地中に散乱しているのを見つけることができるかもしれない。

 

 

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