文=薩蘇
数日前、娘を連れて神戸に遊びに行った折、中華街の入り口で面白い出来事があった。
中華街の入り口に、サングラスをかけ、ベレー帽をかぶった全身、銀白色の人物の彫像が置いてある。表情は硬く、姿勢は奇妙で、多くの人が取り囲んでいる。
神戸には多くの彫像があるのに、なぜあれがこれほど人を惹きつけているのだろう?
考えていると、娘が突然、私を呼んだ。よく見ると、その彫像は突然動き出し、姿勢を変えた。
なるほど、あれは彫像ではなく、一人のアーティストが服と皮膚の上に銀粉を塗り、彫像の様子をして、街角に立っているもので、それは数分おきに姿をかえ、そのたび、機械のような音を出していた。
友人によると、それは、パフォーマンスアートというものだそうだ。
パフォーマンスアートといえば、失笑を禁じえない。なぜなら、以前、北京外国語大学のある教授と話した折、彼女が日本語のことを「パフォーマンスアート」と評していたからだ。
当時、私は英語の成績が悪く、この教授に勉強法を教わろうとしていた。
教授は私の話を聞くと、まったく問題にしない様子で、英語は言語のなかでももっとも学習しやすいものですよ、と言う。
おお、神よ、この世界には、英語を必死に勉強しても出来るようにならない者がどれほどいることだろう。なのに、もっとも学習しやすいとは?
世界の言語は、学習の難易度について各段階がある、と教授は言う。中国語は意思を伝えることが出来、またそれを用いて優美な散文を綴ることが出来る一種の標準的な言語である。難しくもなく、やさしくもない、言語の世界で、「ものさし」にできるようなものである、と教授は言う。
中国語が難しくない、という点は私には受け入れられなかった。なぜなら漢字をマスターできないために自殺しようとした外国人の話を聞いたことがあったからだ。教授は、もちろん、漢字は難しい、けれど、一つ一つを絵だと思えば、それほど難しくはない、と言う。
ならば同意しよう。たぶん教授は中国人だったので、中国語についての話は多少、公正さに欠ける傾向があったかもしれない。
その難度がもっとも低いのは、英語かもしれない。なぜなら、イギリス人も英語を話し、インド人も話し、みな種族が違い、発音の特徴も違い、自然と話される英語もいろいろである。お互いに聞き取れればよく、要求もそれほど高くはできない。もし読者がアメリカに行けば、アメリカ人がしょっちゅう文法の間違いを犯していることに気がつくだろう。シェイクスピアの英語はとても優雅だが、現実のなかの英語はまったくロマンチックではなく、ただの交流の道具である。「道具」の意味は、ただ実用的であればよい、ということで、別のレベルの高い要求はない、ということだ。英語を使う人はゆえに大量の文法の誤りには寛容で、イギリスでは一人一人が違う言葉を使っている、という人もいる。けれど・・・・・・お互いに通じている。
この点については私も同意したい。アメリカで仕事をしている時、多くの少数民族の末裔のアメリカ人は、この土地で数年も生活しているのにも関わらず、英語はあまりできなかった。私の当時の上司、几帳面なドイツ人は、よくアメリカ人の文法の誤りを直す手助けをしていた。
段階が一つ高いのは、フランス語だろう。フランス語は、感情を表現する方面が細やかで優美である。フランス人は恋人に最適だという言い方があるが、これは恋愛を語るのに最適なフランス語に依るところも大だろう。当然、細やかな感情を伝えるのに、文法の正確さを重視しないわけにいかず、フランス語をマスターするのは、ほかの言語に比べ、難度が高く、一種の芸術といえる。
マルクスは友人や恋人に手紙を書くのにフランス語を用いていた。
段階がもっとも高く、マスターするのがもっとも難しいのは・・・・・・教授はため息をついて、それは日本語です、と言う。
日本語はひらがなを使うので、英語に似た表音言語のように思われるが、日本語は五十音、英語のアルファベットは二十六文字、ゆえに、日本語の難しさは基本的に英語の倍である。
日本語はまた漢字の言語であり、それぞれの字に音読みと訓読みがある。中国語も漢字を使うが、複数の読み方があるのは、そのうち20%ほどであり、日本語学習の難度は、中国語より上である。
ゆえに日本語の難度は、おおよそ中国語学習に英語を足したものにほぼ等しい。
日本語は、またそれぞれの場合によって変化し、この芸術性はフランス語に少しも劣らない。
けれど、と教授は言う。日本語はただアートであるだけでなく、パフォーマンスアートなのです!
なぜなら日本語を使う時には、さらに身体言語を伴うべきで、そうしてはじめて自然になる。日本人が電話をかけているのを見ると、よく分かる。微笑んだり、おじきをしたりするべきときは、相手から見えないにも関わらず、それは省略できないのだ・・・・・・。
ゆえに、日本語学習は、中国語、英語、フランス語学習よりはるかに困難である。
このような角度からすると、日本語学習は、まったく容易なものではない。けれど、一つ、言えることがある。
それは、もし、日本語が問題なくマスターできた者なら、世界のどのような言語にも対応できるということだ。
薩蘇
2000年より日本を拠点とし、アメリカ企業の日本分社でITプログラミングプロジェクトのマネジャーを務める。妻は日本人。2005年、新浪にブログを開設、中国人、日本人、およびその間の見過ごされがちな差異、あるいは相似、歴史的な記憶などについて語る。書籍作品は、中国国内で高い人気を誇る。文学、歴史を愛するITプログラマーからベストセラー作家という転身ぶりが話題。 |
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