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良渚(下)五千年前の国都

 

五千年前の国都

良渚古城西城壁白元畈の発掘現場(良渚遺跡管理委員会提供)

良渚遺跡管理委員会文物管理局馬東峰副局長と一緒に、私たちは国内外で有名になった古代城壁遺跡を見学した。

白元畈西城壁遺跡保護区に鉄骨とプラスチック屋根で造った保護用小屋を見かけた。中は深さ約1メートルの地下に、大小さまざまな石がきちんと敷き詰められている。周りには雨水が流れ込まないように、低い垣が建てられている。

この長々と続く城跡に、私は感嘆した。馬局長の説明によると、城壁の土台の幅は40メートルから60メートルで、今見ている長々と続く城跡の基石は、古城壁のほんの一部の横断面に過ぎない。

西城壁を後にして、北城壁遺跡にやってきた。一巡りの高い鉄柵があり、この貴重な古城壁を厳重に守っている。その高さは約4メートル。敷き詰められた城壁の基石の上に、一層一層の黄色の粘土と小石、砂が突き固められ、頑丈に築かれている。

良渚古城東城壁遺跡

良渚古城壁遺跡発掘の責任者である劉斌さんは、発掘当時に話がおよぶと、感極まったようすであった。2006年、莫角山古城遺跡を保護するため、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界文化遺産の申請の準備をしていた良渚遺跡管理委員会は、莫角山の一部の住民を移住させるつもりだった。ところが考古学者が移住先とした葡萄畈を試掘したところ、まず稲田の地下に南北に向かって幅約45メートル、深さ1メートルちょっとの古代クリークを発見した。クリークには、良渚時期の末期に属する陶器破片が多く見つかった。彼らがさらに東に2メートル掘り進んだところ、地元のグレーの土ではなく、外から運び込んだ黄色の粘土で、下に一層石が敷き詰められている。

長江下流地域では、湿気を防ぐため建物の基礎によく石材を使う。では、ここの石の基礎の上にはいったいどんな建築物があったのか。ある人は古い川堤だと言う。理由は二つで、まず、この遺跡の外側に古い川筋があること。さらに良渚文化地区で、前にも大型の川堤が発見されたこと。そこで、考古学者は東苕渓に沿って南北二つの組に分かれ、川に沿って探査用の「洛陽シャベル」で掘った。南にはずっと石材の基礎があり鳳山のふもとまで続いていた。一方、北に向かって渓沿いに700メートルより以後は、地固めも石材の基礎も見つからなかった。

東苕渓は北に向かって流れているのに、なぜ石材の基礎が中断しているのか。これは石材の基礎の上に川堤を築いたという推測は間違いであることを意味する。劉さんは、この石材基礎に平行して、200メートル東に莫角山古城遺跡がある。それを保護するための古城壁だったのではないかと考えた。そこで劉さんは方向を変えて、東に向かって探すことにした。数カ月後、北城壁の基礎がついに見つかった。1年の努力を経て2007年11月、良渚古城の東西南北4面の城壁がすべて確認できた。東西の城壁は長さ1500から1700メートル、南北の城壁は1800から1900メートル、城の基礎の幅は40から60メートル。総面積は290万平方メートル。

考古学者は調査の中で良渚の先住民の築城技法が相当進んでいたことを発見した。例えば、城壁の防水能力を高めるために、地固めの黄土層に黒い粘土層を加えたり、石を敷くとき、外側は大きめの石を使い、内側は小さめの石を使うという工夫がされている。この築城の技法は、福建や広東の客家人の土楼の作り方を筆者に思い出させた。石で円形や方形の土楼の壁の基礎を作るとき、彼らはやはり壁が外に傾かないように、外側に大きな石、内側には小石を使って、より安定させる。

 

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