確立された独特な技法
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今なお使われている1970年代に建てられた龍窯(登り窯)。全長100余メートル。龍窯は一般に、傾斜度30度ほどの山の斜面に建てられ、頭を下に、尾を上にして、天から降りてきた蛟龍(みずち)のような形をしている |
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熟練の技を持つ陶工、袁応徳さん | 建水県城は魅力的な古城で、古い街並みには壮大な孔子廟や朱家花園など40以上の名所古跡がある。その中でもっとも目を引くのは、街の中心にある朝陽楼である。一見、北京の天安門を思わせるような造りである。
建水古城は最初、南詔王国が唐の元和年間(806~820年)に築いた土城であったが、明の洪武22年(1389年)に拡張され、レンガづくりの城になった。戦火にあい、歳月の流れの中で、南門、北門、西門の3つの城楼はすでに跡形もなく消えてしまい、東門である朝陽楼だけが幾多の戦乱や地震から生き残って、600年以上経ってもなお巍然としてそびえたっている。
朝陽楼の3階と4階は骨董の博物館となっていて、建水の古代文物や芸術品が展示されている。博物館の館長は董栄義さんで、まだ30代の民間収蔵家である。彼は自分が収蔵した1万点以上の建水の陶磁器をここに展示している。まるで家宝を数えるように、彼は宋の陶器の壺、元の青花の磁器、明の黒陶の壺、さらに清末の紫陶のキセル、民国の黒陶の「汽鍋(蒸気で蒸す鍋)」を紹介した。
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袁応徳さんがつくった博古瓶 | 展示の中でも珍品といえるのは、清代の紫陶である。清の光緒年間(1875~1908年)、陶工の潘金懐は偶然に、赤、黄、青、紫、白の5色の陶土を水に浸してかき混ぜて、さらに濾過してみると、紫紅色の陶土となった。それを焼いて器や皿をつくると、紫紅色の陶器となった。さらにそれを玉石で磨くと、表面はきめ細かく、つやが出て、鏡のようにぴかぴかになった。こうして建水の紫陶と独自な「無釉磨光(釉薬を塗らずに磨きをかける)」の技法が新たにつくられたのである。
民国年間(1912~1949年)、張好、王定一、向逢春らの陶芸の巨匠たちが紫陶の技術を継承しつつ、唐詩や宋詞や書の拓本、花鳥風月や山水、社殿楼閣などの要素を取り入れて、半乾きの陶器の生地にそれらを描いた。そして「陰」「陽」の2つの彫り方を代わる代わる使って、彫ったところに色のついた陶土を入れて焼く。このようにして独特な風格を持つ建水の紫陶が完成したのである。
紫陶器は有名になり、市場での値段はかなり高かった。「向(逢春)氏の紫陶の値段は黄金と同じ」と言われるほどだった。
建水の紫陶は、最初、キセルや茶具、花瓶、筆筒、印鑑入れ、燭台などが主に生産されていたが、清の光緒年間からは、鶏のスープをつくる「汽鍋」が製造されるようになった。今でも、これで蒸すと鶏肉の味がとりわけ美味しくなるため、米国や日本、東南アジア一帯に輸出され、広く愛用されている。1932年には、建水の紫陶はパナマの万国博覧会に出品され、博覧会の美術大賞に輝いた。
1953年、北京で開かれた全国民間工芸品展覧会で、建水の紫陶は、当時の軽工業部から「中国4大名陶の一つ」と評価された。北京の人民大会堂の雲南庁に陳列されている4つの大きな花瓶は、建水の紫陶の作品である。1960年代、周恩来総理は外国を訪問するとき、建水の紫陶の「汽鍋」や花瓶を持って行き、外国の友人たちへの贈り物にした。
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