張聞天 中国共産党中央に万国博覧会の参加を提案した第一人者
第41回世界博覧会はまもなく上海で盛大に開幕する。早くも1958年に、傑出したプロレタリア革命家、政治家、思想家張聞天は中国共産党中央委員会に上海で一度万国博覧会を開催することを提案した。
1958年、毛沢東が提起した幹部はもっと末端へ実地調査に行くべき呼びかけに応じ、張聞天は上海で調査研究を行い、更に当時の上海市対外経済貿易局の斉維礼局長より中国が初めてチュニジアで開催された国際博覧会に参加した状況の紹介も聞いた後、1959年に上海で国際博覧会を開催することを提案した。
1958年4月13日、張聞天は中央に一九五九年に上海で国際博覧会を開催するレポートを提出し、「国際博覧会を開催することにより、わが国の多くの企業にとっては新技術製品の見学と勉強のチャンスになる」と書いた。
しかし、1958年の中国では、「独立自主、自力更生」を強調しすぎて、民衆の社会主義を建設する積極性を大いに動員しすぎて、市場法則と対外開放の重要性を無視していた。そのため、張聞天、斉維礼のレポートと提案書に対しての結果はまさにナシのつぶてであった。但し、新中国国際博覧事業の発展にとって、二人は奮闘開拓に努めた先駆者であった。
エジソン 万国博覧会から世界へ羽ばたいた発明家
1876年フィラデルフィア万国博覧会、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)が発明した電報送信機を初出展。
1878年パリ万国博覧会、エジソンが発明した電話機や蓄音機、タングステン線で作られた白熱電球を出展。
1888年バルセロナ万国博覧会、エジソンの改良型蓄音機を出展…
2000項目以上の発明があり、人類の最も偉大な発明家エジソンは万国博覧会と緊密な関係があり、彼が発明した電球、電報送信機、蓄音機などは万国博覧会から世界へと羽ばたき、普通の家庭に普及した。フィラデルフィア万国博覧会の時から、万国博覧会はエジソンの発明品の巨大な展示場となった。
1889年パリ万国博覧会の機械展示場で、最も人気があったのはエジソンの発明作品の展示ブースだった。人々は蓄音機を聞くために、3時間も並んだ。1893年シカゴ万国博覧会では、エジソンが発明した真空電球と他の105ボルト炭素フィラメント白熱電球は会場全体を明るくした。
エジソンは万国博覧会にびっくりさせるような発明品を出しただけではなく、万国博覧会により多くのインスピレーションを得た。1889年パリ万国博覧会では、エジソンがフランスの写真家の発明した写真の連続表示装置、そして当時発明されたばかりの新型感光フィルムを見学した後に、啓発を受け、人類の視覚残像現象を利用し、映画装置を発明した。エジソンは万国博覧会から世界へ羽ばたき、世界に影響を及ぼし、人類の文明と進歩に大いに貢献した。
アドルフ・サックス 万国博覧会で吹かれた「サクソフォーン」
1841年、新しい楽器がブリュッセル工業博覧会で初めて出展されたが、ライバルの競争と模倣を防ぐために、この楽器の発明者及び演奏者は後ろで一曲吹いて済ませただけであった。1855年パリ万国博覧会では、この楽器が正式に発表され、そして一気にパリ万国博覧会で最も輝きにみちた展示品の一つとなった。この楽器は「サクソフォーン」であり、名前の由来は発明者であるアドルフ・サックス(Adolphe Sax)にある。
アドルフ・サックスはベルギーのディナンで生まれた。15歳の時に、ブリュッセル音楽学院の優秀な学生となり、そしてブリュッセル交響楽団と共同演出した。彼はフルートとクラリネット面での造詣が深く、最初のEb調性サクソフォーンを開発した。
ブリュッセル万国博覧会では、アドルフ・サックスが発明した独特な楽器は最も注目される展示品となった。アドルフ・サックスは人生の中でさまざまな不幸や挫折に見舞われ、ライバルに繰り返し中傷、訴訟され、破産の憂き目に遭った。最後には惨めな老後を送る中で悲しみに包まれて死去し、彼が発明したサクソフォーンは万国博覧会によって歴史に書き留められた。
百五十数年来、サクソフォーンの発明は万国博覧会の歴史に刻まれ、そして広く伝わり、世界で最も人気のある楽器の一つとなった。サクソフォーンの音色は柔らかく、泣くがごとく、また訴えるがごとくに響き、まるでその発明者のために不平を漏らしているようだ。
ギュスターヴ・エッフェル 鉄で奇跡を行った人
ギュスターヴ・エッフェル(Gustave Eiffel)はフランスの建設技師であり、1855年に中央工芸学校を卒業した後、専門に金属建造物、特に橋を研究した。彼ははじめて圧縮空気を用いた杭打ち機を使用して橋梁工事をした技師の一人であった。エッフェルの主要作品はパリ博覧会の機械展示場、フランスのトルイエール川にかかったガラビ橋、ニューヨーク港の自由の女神像の骨組みなどである。彼が設計したエッフェル塔は世界じゅうの人々を驚かせ、人々に「鉄で奇跡をつくり出した人」と呼ばれた。
1889年にフランスのパリ万国博覧会が開催され、フランス大革命100周年を記念することがテーマであった。エッフェル塔はこの万国博覧会のために建てられた。当時、鉄塔の建設が社会では広く反対された。鉄塔は「醜い煙突のような建物」と言われ、更には、この高さになると、きっと倒れると思われ、人々は鉄塔の周辺に集まり、災禍の発生を待っていた。
1889年鉄塔が竣工した日に、ギュスターヴ・エッフェルはこう語った「我々はこの偉大なる事業をする時に、一歩も逃げることはなかった。必ずこの鉄塔を完成するよう我々の名誉をもって誓い、そして完成した。これは我々のみの栄光ではなく、国の栄光でもある。我々は約束を守った。」現在、エッフェル塔は依然としてそびえ立ち、フランスのシンボルとなっている。都市のランドマークになった超高層建築物の鉄塔は、多くの都市に真似され、現在、さまざまなテレビ塔、展望台、観光塔がそれに習って現れている。
ハート 清王朝が万国博覧会参加時の実力者
ロバート・ハート(Robert Hart)、イギリス人、清朝末期の税関の総税務司長を長期間つとめ、清王朝に「太子少保」に任命された。当時万博への出展事務をつかさどっていたのは清王朝の税関であったため、1867年から1904年に、中国が参加したさまざまな万国博覧会は、すべてハートとその管轄下にあった税関が出展関係の事務を取り扱った。
ハートに対して西洋の列強の中国における代理人だという評価もあり、西洋の緻密な組織と制度を参考とし、中国に効率のよい廉潔な税関を作ったという評価もある。万博研究専門家、上海社会科学院経済研究所教授である喬兆紅はこう語った「万国博覧会の出展だけをみると、ハートとその管轄下の税関の素晴らしい外交能力と企画能力のおかげで、中国はよりよく西洋世界と接触し、理解させることになった。」
歴史資料によると、ハート本人は中国語に精通し、中国の礼儀をよくわきまえて、当時の清王朝税関は氏のワンマン運営だった。ハートは清王朝の万国博覧会への出展事務を管理し、客観的にはある程度中外交流を促進したが、本人や部下達の外国人は、終始中国人に万国博覧会の関連事務に参与させず、全て外国人の通商の利益を重視していた。更には外国人としての「優越感」と「猟奇」的心理によって、意識的に万国博覧会で当時の中国の遅れた一面を暴露したため、好ましからぬ記録となってしまった。
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