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河姆渡(下) 目をみはる建築文化

丘桓興=文 劉世昭=写真

【欄干式の木造長屋】

河姆渡博物館を出て、姚東峰副館長はわれわれを北へ100メートルほど離れた村落遺跡の現場に連れて行った。柵の門を開けて入ると、すぐに林立する大きな木の杭と地面に散乱する木の板に度肝を抜かれた。姚副館長は「ここは6、7000年前の河姆渡人の村落であることが考古学の発掘で証明された。前後に三列の欄干式の木造長屋があり、総面積は約2000平方メートル、千点以上の木製の部材が出土した」と言った。

田螺山遺跡発掘現場の西北側で、7000年前の丸木橋を発掘した。専門家はここが昔の渡し場だったと考えている

河姆渡遺跡で出土した建築部材のホゾ。突起部分とホゾ穴

欄干式の木造家屋は、南方の古代先住民の原始的な住所である。晋の張華は『博物誌』の中で「南越は巣居し、北朔は穴居す」と言った。北方の先住民の多くは日当たりがよく、風の当たらない洞穴に住むのに対し、南方は気候が炎熱、多雨多湿、虫や蚊や猛獣が出没する。湿気と猛獣を防ぐため、先住民は鳥が木の上に巣を作るように、大きな幹の上に木を渡し、枝を広げて、上に木の葉や茅を敷き、風雨を避けた。古くから「有巣氏」と称された。

おもしろいのは考証の結果、木を構えて巣となす「有巣氏」の村落は、果たして河姆渡を含む、浙江省、安徽省などに分布していた。1986年、中国郵電部(省)が発行した「中国民居」という切手シリーズの、「浙江民居」の図案こそが山に寄りそったこの種の欄干式の家屋である。今でも、西南地区に住むミャオ(苗)族、トン(侗)族、シュイ(水)族、チワン族、ダイ(傣)族、ヤオ(瑶)族、チンポー(景頗)族、ハニ(哈尼)族などの民族は、木と竹で作った宙に浮いた欄干式の吊脚楼や竹楼に住む人が少なくない。

河姆渡建築遺跡を深く研究した後、考古学者と建築専門家は、誰もが6、7000年前の建築の知恵と技術に感心した。

まずは住宅地の選択である。稲を栽培する河姆渡人は、耕作の便と、鳥から稲を守るため、南向きの日当たりの良い傾斜地を捨て、わざわざ低い窪地で湿気の多いこの蛇とワニが横行する湖沼の近くに住んだ。そこで、かつての巣居住まいを生かして、湿気と蛇や獣よけの、宙に浮かせた欄干式長屋を建てた。

欄干式の長屋の向きも実に巧妙である。当地は台風が多い。正面から襲う台風を避けるため、欄干式の長屋は東南─西北向きに建て、風を受ける面積を減らしている。

河姆渡遺跡の欄干式の建築遺跡現場。河姆渡人が建築に使ったホゾの技術によって、中国のホゾ技術を応用した歴史を3000年以上前に遡らせた

河姆渡の先住民は家を建てるとき、まず三列に深さ約50センチの杭を打ち、杭の間約2メートルおきに大きな杭を打っていた。これは荷重を受ける杭である。部屋を区切る作用もあった。三列の間隔は約6メートルで、これは部屋の奥行きになる。約1.3メートル隔てて前にある一列の杭は、長屋の廊下である。杭の上端にホゾの技術を用い、梁、枋(角材)、桁をかけ、アンペラや萱草などで覆うと、各部屋が分割される。建築遺跡の長さは23メートルで、部屋の広さは2.6平方メートル、おそらくこの長屋には少なくとも九つの部屋があった。

【ホゾの技術】

河姆渡の先住民は金属の道具を持っていなかったが、彼らはどのようにして欄干式の長屋を建てたのだろうか?発掘担当者は出土した部材の切り口、ひび割れの模様とノミ痕や、石斧や石鑿、骨製鑿などの建築工具から河姆渡人の家の建て方や様子を推測する。

当時、この辺一帯は、森林などが生い茂り、男たちは石斧で木を伐採した。最初まず斜めに一斧入れ、それから真横に入れて切断する。深い溝がひと回りできあがったところで、みんなが力を合わせて、木を押し倒す。これは杭の切り口の平面が実証している。しかも考古学者が石斧で伐採実験をしたところ、十分ぐらいで直径十センチあまりの小さな木を切り倒した。同じくこのように叩き切ったり、叩き割ったりする方法で、木材を杭や梁や柱などに加工することができた。

大きな木を断ち割って板に加工する方法はまさに巧妙の至りである。原木の縦の線に沿って一定の間隔で石の楔を打ち込み、これを叩いて、最後に引き裂いて板にする。この方法は石の楔の後ろにある、打ってできた破損の跡によって証明された。

驚いたことに、遺跡から柱頭のホゾ、運搬用のホゾ、梁のホゾ、柱頭のホゾ穴などのある大量の木製部材が出土したことによって、河姆渡人が6、7000年前すでに進んだホゾの技術をもっていたことが明らかになった。

ホゾの技術は一つの発展の段階を経てきた。最初、原始人類は木で家を建て、藤の蔓だけで部材の交わる部分を巻きつけてつないでいるため、堅固ではなかった。その後、梁と角材をY字型の柱に架けることで、外にずれず、ちょっと巻きつけるだけで頑丈になることを発見した。続いて、Y字型の樹木に似せて、柱の先端を凹型に削ぎ、梁の端を柱とかみ合わせるようにした。この方法で作るとひもで巻かなくとも非常に丈夫である。後に改良を重ねて完全なものになり、今日のホゾの技術につながっている。

博物館に展示されている各種の建築工具と家屋の建設情景図を見れば分かるように、当時は金属工具がまだなく、河姆渡人は石斧で木の杭の先端を横に切って、さらに縦に裂いて、ホゾを作った。ホゾの受け口は固い石鑿と骨鑿で少しずつ彫ったことが、その先端の叩いた傷跡から立証される。

建築専門家が出土した木の部材から、多くの抜きん出た思い及ぶ限りのホゾの技術を発見した。

ある柱頭ホゾの下に、9×7センチの受けのホゾがくり抜かれている。これは左右の梁と角材を繋ぎ合わせるもので、後に「平身柱」と呼ばれた。  ある不完全な立柱の先端に11×16センチの受けのホゾが二つあり、互いに直角に交わって内部が通じている。これは垂直に交わる梁と角材を繋ぎ合わせるもので、後に「転角柱」と呼ばれた。

あるホゾの中ほどに直径3センチの丸い穴がある。穴に止め釘を打てば、ホゾの外にはみ出さない。

また、ある長さ79センチ、幅17センチの不完全なさねはぎの板の両側にそれぞれ幅1〜2.5センチ、深さ2.3センチの溝を彫っていた。これは他の側面を薄く削った木の板をさし込んでつなぐことができる。このような密接に板をつなぐ工芸は、河姆渡人のずば抜けた技術を示している。

 

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