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鴻山 蛇をトーテムとする陶器王国

丘桓興=文 劉世昭=写真

新春、私たちは北京から上海までの夜行列車に乗った。翌日午前、『太湖の美』という曲が流れる中、太湖北部に位置する無錫市で下車した。

瑠璃釉盤蛇玲瓏球(鴻山遺跡博物館提供) 2004年当時の鴻山遺跡考古発掘現場

【小丘の下に多くの古墳】

鴻山遺跡は無錫の東南二十数キロにある。無錫市文化遺産保護・研究センターの楊建民副主任は、文物の保護と研究に従事して、もう30年余りにもなる。彼にはかつて南京博物院の考古学専門家とともに、鴻山遺跡の発掘・保護事業に参加した経験がある。2003年、デベロッパーが鴻山に新しく家具の大型販売場を建設するため、整地や道路の建設を行っている最中に、多くの陶器の破片が出土した。ある農民工が比較的原型を留めた陶器を持ち込んできたので、専門家が鑑定したところ、それは2000年以上前の青磁であることが判明した。楊氏は大急ぎで工事現場に駆けつけ、デベロッパーに対して国家文物保護法を宣告して、工事を中止させた。しばらくして、南京博物院考古研究所などの専門家で構成される考古調査隊が、万家墳、老虎墩、邱承墩などの戦国初期に属する七つの古墳に対して保護目的の発掘を行った。その内、すでに盗掘被害を受けていた邱承墩大型貴族墳墓だけでも、さまざまな副葬品が1098点も出土した。この発見はすぐさま考古学界を揺るがし、2004年中国十大考古学の発見の一つと評された。

注目すべきは、江南地方は水郷で、河や湖、中洲が多く、低地帯であるのだが、「墩」「山」「墳」と地元の人々から呼ばれる小高い丘の下から、考古学者たちがしばしば古代の古墳を発掘したことだ。ある丘の下にあった古墳には、文化的重層構造現象が存在し、最下層のものは先史の文化遺跡で、中間層には商(殷)・周時代、最上層には唐・宋あるいは明・清時代文化のものが発見された。これを考古学界では、「高墩(小丘)文化現象」と呼ぶ。

硬質陶製淳于(左側、右側)、丁寧(中央)

青磁製冷酒器(鴻山遺跡博物館提供)

調査によれば、鴻山には128の「高墩」があり、すでに七つの古墳が発掘され、その他の108の「高墩」にも古墳が存在することが判明している。国家の文物を保存するため、無錫市政府はデベロッパーに支出済みの巨額の先行投資金を補填して、家具販売場の建設を中止させ、同時に、国務院に報告・申請・批准を得た上で、この7.5平方キロの地域を国家重点文物保護地区と定め、大切に保存している。

【温酒器・消毒釜・焜炉】

2008年4月、鴻山遺跡博物館が落成した。博物館は邱承墩古墳跡に建設され、そこには、鴻山遺跡博物館、中国呉文化博物館、そして邱承墩戦国時代貴族墳墓跡が含まれ、建物面積は一万平米にも及ぶ。博物館はまわりを清らかな水に囲まれ、古城を模した城壁と特製の青銅瓦が田園風景の広がる江南の地に古き良き、素朴で自然な風情を醸し出している。

鴻山遺跡博物館では七つの戦国時代貴族墳墓から出土した各種副葬品を展示している。それから等級に基づき、同じ貴族墳墓に属するものでも、墓の規模、墓室の構造、副葬品の種類と数量などによって、五つの等級に分けられている。中でも最大の邱承墩古墳は、墓の主は越王に次ぐ、范蠡、文種などの大夫クラスの権勢家ではないかといわれている。研究によれば、鴻山越墓の年代、すなわち紀元前473年に越国が呉国を滅ぼしてから紀元前468年に越王が都を琅琊(現安徽省滁州。一説では山東省膠南)に移した間は、越国が全盛を誇った時代とされている。

夏暁偉館長補佐の紹介では、展示されているさまざまな倣銅陶製の礼器と生活用品は、墓の主の在りし日の豪勢な生活の様子と越文化の独自の特徴を物語っているとのことだ。

青磁製の温酒器と冷酒器は、構造が巧みだ。焜炉に炭火をおこして、上部に13の丸い穴のある温酒器を焜炉におき、そこに水を注ぎ、さらに酒杯を丸い穴の中に入れる。こうして、火で水を温め、湯で酒を温めて、厳寒の冬に熱燗を飲むことができる。同様に、酷暑の夏に地下の氷室から冬に貯蔵しておいた氷を取り出し、それを盥にいれて冷やして、冷たい黄酒を飲むこともできる。

玉飛鳳(鴻山遺跡博物館提供) 四蛇四鳳紋玉带鉤(鴻山遺跡博物館提供)

青銅製の吊り釜と水切り器などで構成される消毒器の発見は史上初のものだった。出土時には、吊り釜、その中に置かれていた水切り器、容器の内側を下向けに積み重ねた青磁碗という三種類が一揃いで見つかった。この状況から、これらが碗や杯を熱湯消毒するための消毒器であると推察できる。江南地方は多雨高湿で、蚊や蝿も多く、病原菌が繁殖しやすい。そこで、当時の高貴な人々は底部に穴のある水切り器に碗や杯を逆さまにおき、それを吊り釜に入れて、釜の水を沸騰させてから、水切り器で湯切りをしながら、碗や杯を取り出す作業をしていたのだろう。こうすれば、食器類は消毒され、衛生的で、さらに作業も簡便だ。注目すべきは、吊り釜の中には一対の輪があり、縄などで縛って、吊上げやすい構造になっていて、火で縄が焼き切れない工夫がなされている上に、輪の外側には炎を遮断するための半円形の囲いまで施されている。ここからも制作者のきめ細やかさと周到さが見てとれる。

鴻山古墳群からは十数個の円形、長方形の焜炉が出土しており、当時の貴族たちが肉や魚の焼き物を好んで食したことがわかる。焜炉の中がへこんでいて、燃え盛る炭火をいれ、肉や魚をすのこ状の網で炙り焼けば、文字どおり「人口に膾炙する」ものができあがる。ある長方形の硬質陶焜炉は、装飾も極めて精巧だ。それは四頭の「豹形承足」で、造形も生命力に溢れている。そこにある豹は、頭を垂らして、餌を捜し求め、両耳をそばだて、両目を見開き、四肢を屈め、尾を垂らしている。その姿は躍動感に溢れ、2000年以上前の陶芸技術のずば抜けた高さを証明している。

【華夏大地の文化交流に関する証明】

「楽庫華章」というホールに入ると、邱承墩、万家墳、老虎墩などの大型古墳から出土した倣銅陶製楽器が辺り一面に展示されていて、まるで陶製楽器の王国のような光景が目に飛び込んでくる。

展示されている楽器の数は400にも及び、種類は雑多で、造形もさまざまである。中でも、「甬鐘」「鎛鐘」「編罄」などは中原系の楽器を模したもので、これらは呉越の中原地域との交流と、中原文化吸収の証左である。

『史記』によれば、周の太王の長子である太(泰)伯は王位を譲り、次子の仲雍を連れて呉へ赴き、中原の先進的農耕技術と文化を伝播し、江南に発展をもたらした。鴻山には伯瀆河という河が流れている。伝説によると、太伯が江南を訪れた後、この辺りが低地帯で、連なるように湖沼が多く、船の往来が不便なだけでなく、水はけが悪く水害などの危険も高かったので、彼は農民を組織して河川工事を行い、湖沼をまっすぐに貫く運河を造営したといわれている。楊建民氏などの専門家の分析では、この長さ三十数キロの伯涜河は中国最古の運河だという。3000年以上にわたって、伯瀆河は河川運輸の便を提供し、水害発生の減少に貢献することで、この一帯に大きな発展をもたらした。

鴻山の近くに建てられた太伯廟と太伯墓は、いずれも全国重点文物保護単位に認定されており、当地の人々も庶民に幸福をもたらした先人に対する感謝の気持ちをつねに忘れず、例年、旧暦1月9日の太伯生誕日には、参詣し焼香する人々で廟は大賑わいとなる。

青磁製三足缶(鴻山遺跡博物館提供) 青磁製鼓座(鴻山遺跡博物館提供)

鴻山遺跡では、「句」や「淳于」「丁寧」「鐸」「三足缶」および「懸鈴」とその座など呉越系の倣銅陶製楽器も出土した。これらの文物はいまはもう演奏できないが、当時、青銅楽器は室内演奏用で、しかも士気を鼓舞する軍隊楽器である。『史記』によれば、呉王が、空がまだ明けない時から、鼓鎚を手に鐘、鼓、丁寧、淳于、鐸をたたくと、「勇者も臆病者も皆馳せ参じて、三軍の意気は盛んで、鐘などをたたいて士気を奮い立たせ、その音は大地をも揺るがす」ほどであったという。

缶はもともと古代の酒甕だが、その後、酒を飲む者が手でこの甕を叩いて興を添えるようになってから、徐々に打楽器の一種に変貌していった。『史記』にも春秋時期の缶にまつわる故事が記載されている。渑池の会で、秦王が趙王に自分のために瑟を奏でさせ、それを史官に記録させて、趙王を辱めようとした。その様子を見ていた趙国の大夫である藺相如が、秦王にも趙王のために缶をたたくよう願い出ると、秦王はこれを拒絶したので、藺相如は缶を手に取り、死を以って迫り、それで秦王はしかたなく趙王のために缶をたたいたという。

呉越にはもともと缶の演奏を楽しむ習慣はなく、秦国からの伝来で、秦文化の呉越文化に対する影響を反映するものである。鴻山で出土した三足缶は、底部が宙に浮いており、内部の高さもあるため、たたくことによる共鳴、共振効果はすばらしく、呉越文化の特徴もよく表している。

春秋戦国時代、中国の青銅文化は発展時期にあり、呉越が鋳造する青銅兵器は名声を極めていた。1960、70年代に出土した越王勾践剣、呉王夫差剣は地下に2000年以上眠っていたが、その輝きも鋭利さも比類がない。しかし、ほかの古墳で出土した多くの青銅器と異なり、鴻山古墳のものはすべて陶器や玉器で、青銅製の副葬品はほとんど見当たらない。これは一体何を意味するのだろうか。

この事実についての夏氏の見解は、越国は銅の産出量が少なく、多くを他国からの輸入に頼っていたが、当時、越王は早急に富国強兵を実現して、諸侯と雄を争い、覇を称えるために、貴重な青銅は兵器と農具の鋳造に用い、国力の強化に努めた。その結果、各種副葬品は陶器で模造するほかなかったのではないかというものだ。越国は陶器製造技術も発達しており、太湖南部の徳清では陶土の産出量が豊富で、付近の山林は豊かに生い茂り、陶芸職人の技術も高い水準にあったようだ。生産された陶器は船積みされて、太湖、運河をつたって鴻山に運ばれ、非常に便利であった。

無錫市文化遺産保護・考古研究所の劉宝山所長は、呉越はともに中原文化の吸収と導入を重視し、呉王は公子である季札を魯、斉、鄭、衛、晋などの中原諸国に派遣して、周王朝の礼楽制度と文化などの吸収に努めたのではないかと考えている。また、呉越は諸侯と礼物や物産の贈呈、交換、さらには出征を通じて、中原の青銅祭礼器や楽器をなんとか手に入れ、それを至宝として奉り、軽々しく地下に埋葬しなかったし、当時は埋葬に関する風俗習慣も徐々に様変わりし、すでに陶製の人形などを副葬品とするようになっていたと推察する。

【越人の蛇崇拝】

さまざまな文物の中で、私は多くの玉器、石器、倣銅祭礼器、楽器などに注目した。それらにはみな蛇が装飾されていた。「盤蛇神獣紋玉管」というものは神獣の体に三匹の蛇が纏わりつき、「四蛇四鳳紋玉帯鉤」は四匹の蛇と四羽の鳳凰が互いに絡み合う透かし彫りが施されている。「鎛鐘」の懸鈕には泳ぐ蛇が、「青磁鐸」の鈕には横臥する蛇が、「青磁懸鼓」の座には九匹のとぐろを巻く蛇がそれぞれあり、いずれも目と口を開き、体には鱗の紋様が施され、とても写実的だ。それ以外にも、さまざまな祭礼器や楽器には「S」の紋様が施されて、これは蛇の簡略化された象徴といわれている。

さらに注目すべきものとして、「瑠璃釉盤蛇玲瓏球」というものがある。至宝と称される「玲瓏球」は中が空洞で、下部には低い円形の脚がついている。球体は八匹の蛇で構成されて、二層に分かれており、一層には四匹の蛇が配置されて、やはり目と口を開き、相互に絡み合い、姿がそれぞれ異なる。蛇の体には青く半透明の点状の瑠璃釉が施され、さらに全体的あるいは点状に赤く塗られて、極彩色の不思議さと神聖さを漂わせている。

蛇の形象は神聖な祭礼器や楽器に彫刻され、それらは貴族墓室の重要な位置に安置されているところから、当時の越人の蛇に対する崇拝を読み取ることができる。

太(泰)伯廟 太(泰)伯墓

研究によれば、7000年前の河姆渡人、4、5000年前の良渚人などの古越先民の時代から蛇崇拝はあったらしい。その古い風習は次世代へと伝承され、中原からやって来た太伯、仲雍も郷に入れば郷に従えで、断髪と刺青を施した。その刺青とは、自分の体に蛇の紋様を彫ることであった。

今日、かつての呉越地域及び安徽、福建、広東、湖南など古代の「百越」といわれた人々の居住地域には、やはりさまざまな蛇崇拝の風習が残っている。

無錫一帯では、庶民は春節(旧正月)の年越しに餅を作るとき、龍のような「米蛇」を作って米蔵に安置し、糧食の豊作を祈願する。

常州では、庶民の間で春節や家の新築、引っ越しの時には、「宅神」であり、「斎土龍」と呼ばれる蛇を祀る。

呉越地域では、庶民は蛇が米蔵、戸棚、寝床から現れ出ると、「家に蒼龍(守護神)が現れた」という。中国語では「蒼龍」と「昌隆」は発音が似て、繁栄や隆盛という吉兆を意味する。

江南地方では、庶民は家を新築すると、屋根の梁と柱に青龍将軍と呼ばれる家の守護神である蛇(あるいは龍)を彫刻する。

各地には大小の蛇王廟が存在し、旧暦の4月12日は蛇王の生誕日で、庶民はこの日に蛇王廟を参詣する。  福建省の南平樟湖坂では、毎年、旧正月17日から19日の夜にかけて、各家が「灯板」を連ねて、一匹の大蛇を作って、村や町を練り歩く。こうして蛇神を祀ることで、その一年の村や町の幸福を祈願するのだ。

研究によれば、越人の蛇崇拝は蛇への畏怖の念と関係があり、稲作と養蚕ともつながりがある。田畑をこそこそ逃げ回って稲をかじり、深夜に竹かごに忍び込んで蚕を食べてしまう鼠に対して、農民は蛇が鼠を退治してくれることを願っていたのだ。

 

人民中国インターネット版 2010年6月12日

 

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