遼・金王朝 千年の時をこえて 第17回

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

「東京」──東北部の 外交と貿易の中心

2004年の夏、遼寧省を東へ向かって横断した時、豪雨で増水した遼河を渡った。両岸の堤防の写真を撮りながら、私は、この河が遼王朝にとってどのような意味を持っていたかに思いを馳せた。言うまでもなく遼という国名は、この河にちなんだものである。さらに東へ向かうと遼陽に至る。ここは、遼・金時代の「東京」であり、東北全域のもっとも重要な行政府、軍事基地であった。遼陽は唐の軍隊が朝鮮半島の高句麗と戦った時、すでに軍の駐屯地として存在していた。後代になると渤海国の支配下に入る。中国東北部の大部分を領有していた渤海国は、中国、高麗、日本と外交関係を有していたが、926年、契丹の太祖阿保機によって征服され、東丹国(東契丹の国)と改名、遼陽に首府が置かれることとなった。次の太宗が、983年に遼陽を遼帝国の「東京」と命名した。

遼河は契丹本土の境界であり、王朝の名ともなった ここを基点として中国沿岸の港と交易が行われていた

東京は、南は北緯40度から、北は北緯56度まで、現在のロシア領を含む広大な東京道がその版図であったといわれている。当然のことながら、国境地帯には、遼の支配に服さない多くの部族が居住しており、このため東京道は異部族対策と、そして北東アジアの国際貿易関係を取りしきる最前線でもあった。

遼帝国は正に人種のるつぼであり、52の契丹部族の他に直轄の「外縁部族」が10、そして「熟女真」のような半独立部族が6、さらに最北部の「生女真」を含む61の「異種部族」が存在していた。以上に加え『遼史』によれば、この帝国は西夏、ウィグル、高麗そして日本とも朝貢関係を結んでいたという。(日本の資料には、遼へ朝貢使節を派遣したという記載は一切ない)

太祖阿保機以来、契丹の統治形態の特徴として、領内の異民族に対する「二元体制」を挙げることができる。北方統治は契丹族とその他の部族を対象とする部族制、南方統治は主として、漢民族居住地域を対象とする州県制である。東北部には、多くの部族が定住していたため、部族行政が東京の役割をいっそう重要なものとした。渤海を支配下に収めた契丹は、やがて高麗王に臣礼を要求するようになる。当初は、比較的平和な関係が維持されたが、渤海国の残存勢力との確執や高麗王の継承問題等をめぐって、10世紀および11世紀に契丹軍は三度、高麗に侵攻し、1010年には、高麗の首都を破壊するまでに至った。やがて交渉の末、平和が回復し1021年、契丹の皇女が高麗王に降嫁する。しかしながら契丹の苛斂誅求に不満を抱く渤海人の反乱はその後も続き、1029年には東京総督とその妻が人質にとられるという事件が起こった。1119年、女真族が起って東京を占領したのも、その前年の渤海人の反乱がきっかけとなったといわれている。女真金の時代も遼陽は引き続き、東京として残ったが、その版図は縮小され現在の遼寧省の東部ほどの大きさとなった。

遼の東京は遼河とその支流を通して、中国沿海の港々との交易を盛んに行っていたことが知られている。

瀋陽の塔湾区に現存する無垢浄光舎利塔。1044年に建てられたが、当時、瀋陽は遼東京道の小城「瀋州」にすぎなかった

遼陽の広佑寺白塔、高さ71m、13層8面型

渤海人は、海洋を航海する船舶の建造に徴発され、それらの船が、毛織物、羊、木材、貴金属の装飾品を運び出し、さらには人参、毛皮、馬等、高麗や北方部族の産物を中国の絹、茶、薬品と交易するために輸送していた。海運以外にも、東京には「草原シルクロード」と呼ばれるルートを通じて、ウイグルやさらに遠方の国々からの物資が届けられた。この「シルクロード」貿易が日本にまで達していたかどうかは現在、専門家が研究しているところであるが、渤海国が34回にわたって日本へ使節団を派遣していることを考えると、それらの船に遼の産物が積まれていたことも十分に推測し得る。最近、新潟市を訪問した際、1158年と1178年の年代が刻まれた金朝の銅貨が市内で見付かったことを聞いた。

初めて遼陽の白塔を見た時、それがかつての東京の壮大さを今に残す数少ない遺跡であることをしみじみ感じた。この白塔の縁起には、いくつかの言い伝えがある。唐時代に建造されたという説、阿保機が母の供養のために建てたという説、さらには金の五代皇帝世宗が、この広佑寺で出家した母のために建てたなどなど。しかし、その様式が1057年に建造された錦州の広済寺塔に酷似していることから、この白塔もおそらく、遼のその時代に建てられたものと推定される。

2009年の再訪の際、驚いたことに、新築された本堂は、中国最大の仏殿ということであった。もちろん私は、遼・金時代の歴史の香りを今に伝えている古塔の方にいっそう魅かれるものを感じた。遼と金という二つの多民族国家の東アジアの歴史における位置付けを考える時、両王朝の東京としての遼陽の重要性は明らかであろう。

 

人民中国インターネット版 2010年6月30日

 

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