遼・金王朝 千年の時をこえて 第18回

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

「捺鉢」の四季

遼・金の歴史を研究している私にとって、もっとも心魅かれるのは、この民族の旺盛な行動力である。帝国の成立後も、彼らは遊牧民の伝統を守り続けていたが、その典型が契丹族の「捺鉢」の風習であろう。

「捺鉢」地の風景。内蒙古慶雲山の草原と天幕 「捺鉢」地の風景。四季それぞれに「如春水」「夏涼」「秋山」「座冬」。内蒙古慶州の黒山とチャガムレン(黒河)沿いの草原

「捺鉢」とは、契丹皇帝が季節ごとに移住する狩猟や釣魚に好適な草原の宿営地を指す。季節によって異なる場所へ赴くので、「四季捺鉢」という名称がある。皇帝の行幸は、騎馬隊に守られた天幕車を中心とする壮麗な行列であり、その様子は遼陵墓の壁画にも描かれている。この行軍は、一つには遊牧や狩猟を目的としたものであったが、加えて戦時の進軍や射箭の訓練を兼ねていたのであろう。皇帝は「捺鉢」において「大会議」を主宰し、政務や司法の決定を行うのが常で、皇帝の天幕がすなわち、契丹政府の所在地であった。「捺鉢」には定まった場所はなかったが、度々使われていたところは知られており、遼代中・後期には大体定型ができ上がっていた。

「春捺鉢」は旧暦正月に始まり、場所は今日の吉林省長春河や長泊、そして河北省北部の安固里湖または北京周辺のいくつかの地点などさまざまであった。この期間は草原の沼地で魚釣りと「野鴨」や「天鵝(ハクチョウ)」狩りが行われていた。『遼史』には、「頭魚宴」とか「頭鵝宴」といった一年最初の収穫を祖先に捧げる祝宴の模様が記載されている。

金華銀靴。奈曼旗の陳国公主陵墓で発見(内蒙古文化局)

鷹匠を描いた紅刺繍の袋。慶州白塔で発見(巴林右旗博物館)

「夏捺鉢」は毎年旧暦五月に契丹の南・北面官と各部族の代表が参加する最初の「大会議」が開催されることで重要である。皇帝はこの会議において、遼帝国の領民の運命に関わる重大な決定を行った。また、この期間には、外国からの使節が「捺鉢」へ公式訪問に訪れた。避暑を目的とする「夏捺鉢」の場所は一定せず、現在の河北省承徳の北東、炭山の近くのこともあったが、多くは内蒙古の巴林右旗の北西、永安山嶺の中に設営されたようである。「大会議」が閉幕すると漢族の高官たちは、中京や南京へ戻って行ったが、契丹人は引き続き「捺鉢」に滞在し、狩猟に興じ、政務を執り、祖先の陵へ参詣する生活を送った。歴代の皇帝は、風光明媚な永安山をこよなく愛し、懐陵と慶陵をこの地に造り、五人の皇帝がそこに埋]葬されている。

私はここを訪れた時、高台に天幕が張られているのを見て、小さい「捺鉢」に足を踏み入れたような錯覚に捉われた。王陵の谷は、十世紀当時のまま、美しい自然を保っていた。慶陵の東部内室にある壁画に狩猟の四季の景色が描かれている。それは見る者に契丹の人々が「捺鉢」を来世にまでもっていきたいと願っていたことを想わせる。秋の風景は森林の中を鹿が群れをなしている図であり、春の場面は水鳥の棲息の姿態が題材となっている。1930年代に、この壁画について初めて報告したのは、日本の考古学者鳥居龍蔵である。不幸にもその数年後、次の調査団が訪れた時には、すでに壁画は上部からの浸水のため破損が甚だしい状態になっていた。

青銅鐘には行軍中の随員たちの姿が刻まれている(1932年、竹島卓一氏撮影)

遼代壁画、契丹貴族の肖像。高さ1.9メートル。1973年に内蒙古大菅子村、元宝山遼墓で発見(赤峰市博物館)

「秋捺鉢」には、慶州の黒山とさらに北方の饅頭山の間の草原が選ばれることが多かった。皇帝の一行は、山中で鹿や虎を狩り、菊花酒で宴を張った。鹿狩りには、狩子が鹿皮を被って鹿笛を吹いて獲物をおびき寄せる独特の手法が用いられたという。その地を訪れ、私はチャガムレンの川岸に立って、遥かに黒山を眺めた。土地の言い伝えのように、幼い聖宗が母の蕭太后と共に、この川辺で遊んでいる姿が目に浮かぶようであった。近くに建つ白塔一帯の発掘の際、紅色の小袋が見つかったが、それには契丹の鷹匠が疾走する馬上で二羽の鷹を拳に乗せている図案の刺繍が施されており、見る者に緊迫感が伝わってくるような傑作である。

鷹の最高級種は「海冬青」と呼ばれるもので、戦いの神として崇められ、現在のハルビン付近で、女真族によって飼育され遼皇帝への貢ぎ物として納められていた。鷹狩りは時には、水鳥の棲息地である内蒙古の大水泊(天鵝湖)という湖沼で行われていたが、かつてその湖中の島であった砧子山の岩壁には鷹匠と獲物の絵が刻まれている。2001年のある日、私は砧子山の1000年前の摩崖彫刻を調査しようと岩山を登って行った。壁刻の一つは勇壮な契丹の騎馬武者の姿で、また、あるものは、徒歩の猟師と獲物の鹿が刻まれていた。この図柄と遺品から此処が捺鉢の地であったことが推測される。さらに北へ向かった処に、金時代の国境線であった土塁が残っている。1198年に完成した土塁は1500キロに及んでいる。その上に立って、遠くを眺望すると土壘の起伏が果てしなく両方向に延びていた。後に続く女真、モンゴル、満州族もみな、契丹の先例を踏襲してこの地に行宮を置いたことが思い起こされた。

「冬捺鉢」は、三カ月以上にも及ぶ狩猟の時期であった。陰暦十月、契丹の部族長や南北面官、将軍たち、その他、外郭部族の代表たちが、「南北大臣会議」のために集まって来る。通常、この会議は内蒙古のシラムレン(西拉木倫河)の南の草原で開催された。この地は、往時の姿をそのまま留めているが、南端は遼の中京があったラオハ川(老哈河)近くまで続く広大な草原である。「冬捺鉢」の期間中にも、皇帝が宋や諸外国からの使節を接見したとの記録がある。

「捺鉢」地の風景。克什克騰旗

遼墓から発掘された馬具の一部――首飾りの鈴(巴林左旗博物館)

四季の「捺鉢」にはそれぞれ、興味深い逸話が残っているが、『遼史』によると、1112年、春州(現吉林省)の周辺で開催された「捺鉢」は、その後の中国の政治情勢に重大な影響をもつものとなった。天祚帝の時代のこと、恒例の「頭魚宴」が祝われた際、酒席で各部族長が踊りを披露するよう命じられたが、生女真の完顔阿骨打のみは、幾度も促されたにもかかわらず、頑として踊ることを拒否した。契丹の朝臣たちは、阿骨打の傲慢さに激怒し、厳罰に処そうとしたが、天祚帝は「女真族は礼儀を知らないだけで、狩猟上手である」と誉めるところがあった。この寛容さが後にとんでもない結果を引き起こした。その三年後、阿骨打は遼を攻略し、金王朝の成立を宣言したのである。

皇帝が遼の南京(燕京)に滞在している時も、「捺鉢」の風習は続けられた。遼南京は、今の北京の南西、宣武区に位置しており、宮殿の北東にある湖沼地帯に狩りと魚釣りのための行宮が造営された。これが北海公園の琼華島のあるところである。長城の北、現在の延慶県には放牧地があり、蕭太后が蓮の花を栽培していたといわれる湖があった。また昌平区の双泉寺には「蕭太后の鏡台」と名付けられた場所も残っており、太后がここに滞在したとの言い伝えがある。

北京通州区の南にある湖沼は「春捺鉢」の最適地とされていた。そこには延芳淀という大きな湖があり、野生動物とりわけ天鵝の棲息地であった。契丹の皇族たちはこの地でくつろぎ、「頭鵝宴」を張って歌や踊りを楽しんだ。『遼史』には九八六年に承天皇后が訪れ、その後十年の間に皇帝の行幸が異なる季節に行われたとの記載がある。

柏木造りの馬鞍。阿旗遼墓で発見(赤峰市博物館) 克什克騰旗の砧子山の岩肌に彫られた契丹武人の像

数世紀を経て、湖は浅い沼になってしまい、近年の都市開発の影響もあって、元の姿を想い浮かべることは難しい。私は2001年に、この一帯を探訪した際、県村の近くで湖のなごりらしきものを発見した。羊飼いが羊に水を飲ませており、水辺に葦が生い茂っていたが、宴会用の天鵝は現れなかった。以前は湖中にあったと思われる7メートルほどの高台が目に入った。皇帝の一行はその「凉鷹台」から辺りを見回し、鷹狩に興じたのであろう。宋が遼燕京に対する侵攻を企てて以来、延芳淀は前線基地として、いっそう重要性を増すことになった。近くの馬营村は今では、ブドウ畑になっているが遼の騎馬隊の野営地であった。

 蕭太后には実は、もっと大切な金字塔がある。それは、燕京から50キロ東南に位置する大運河の終着点で穀物の集散地である張家湾に至る運河の建設事業である。私は、この運河を綿密に調査したが、1000年の時を経ても黄土を固めた堤防によって、今もその姿を留めていることを知って驚いた。付近の人々に運河の名を尋ねてみると答えは異口同音に「蕭太后運河」であった。  

「捺鉢」は一時的な宿営地であり、『遼史』のなかでもわずかな記載が残っているだけであるが、当時の逸話がさまざまな形で、今に語り継がれているのは驚くべきことである。「捺鉢」は契丹人の生活に不可欠の要素であり、漢族風の恒久的な首都を造った後も、この伝統は維持された。乗馬と弓術の鍛錬をしながら、常時、移動することによって、契丹族は戦闘能力を高め、またこの移動の過程で支配者たちが、領内の異民族や異文化に触れ、伝統と情報を共有できたのであろう。「捺鉢」の四季は遼帝国の活力と特殊な支配形態をわれわれに伝えてくれる。

 

人民中国インターネット版 2010年8月

 

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