丘桓興=文 張敬国=写真提供
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張敬国教授(写真・劉世昭) | 凌家灘は安徽省巣湖の東側に位置する含山県にある。ここから長江までの距離は約40キロ。付近の太湖山国家森林公園の山頂に登れば、長江が望める。
1985年、ここで凌家灘遺跡が発見された。その後、安徽省文物考古研究所の張敬国教授の指導の下、1987年からの10年間、この遺跡に対して5回にわたる発掘調査が行われ、5500~5300年前の文物が2000点以上も出土した。
ある考古学者はこの発見の価値を表現するのに、「ここはまるで地下に眠っていた博物館のようだ」と語ったという。
凌家灘遺跡をより理解するために、私たちは張敬国教授を訪ねた。
玉人 華夏先住民の容姿
巣湖流域は古代から温暖湿潤な気候で、1万年以上前からこの一帯には原始先住民が生息していたと考えられる。
凌家灘遺跡は160万平米にも及ぶ集落遺跡で、神廟墳墓区、祭壇区、居住区などからなり、2001年には、国務院により全国重点文物保護単位に認定された。
同遺跡では相次いで六体の玉人が出土した。別の場所で出土したものはどれも頭部や胴体部だけだが、ここで発見されたものはどれも完全な立像と坐像で、華夏先住民の姿形を余すところなく表している。面長の顔、濃い眉、大きな眼、獅子鼻、大きな口といった彼らの身体的特徴はモンゴロイドのものと符合しており、草創期の中華民族の身体的特徴の全貌をよく反映している。
六体の玉人の服飾はどれも大差がなく、坐像の玉人は頭に丸い冠を被り、冠には格子柄が施され、頭上には三角形の飾りがあり、腰部には斜線の紋様が入った腰帯を着けている。これらは凌家灘の先住民がすでに毛皮や木の葉を身に纏うような原始的生活に別れを告げ、衣服帽子を着用するだけでなく、紡績と工芸の技術を習得し、自らの衣服帽子に紋様図案を細工する能力があったことを証明し、彼らの「ジェントルマンぶり」を表している。
また、玉人の上唇には「八」の字の口髭があり、ここから凌家灘の先住民が当時すでにグルーミング用具を所持使用していたことを推測でき、さらに玉製の腕輪や耳輪用の穴が見られることから、彼らに美意識が生まれ、権力と富を象徴する玉で自らを誇示美化するのを覚えたことが読み取れる。
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坐像玉人 |
六体の玉人はいずれも正装で、両腕を曲げ、両手を胸におき、神霊に敬虔な祈りを捧げるか、祖先の祭祀を行っているかのように見える。ここから、彼らの身分が部落の中で神霊と対話し、祭祀を司るシャーマンだったのではないかと推測できる。
豊かな精神世界を表す玉器
凌家灘から出土した2300点余りの文物の中で、1200以上が玉器で、玉人以外は、鉞(古代の戦斧)、璧、環、璜(半円形、或いは璧を半分にした形の玉)、勺などの武器、礼器、装飾品であった。その中で、鷹、龍、鳳凰、虎、猪、兎などの動物の玉器は、その造形の躍動感と写実性だけでなく、集落社会及びその信仰崇拝に関する情報を多く含んでいて、凌家灘の先住民の豊かな精神世界を表している。
中華民族には龍崇拝があり、事実、多くの遺跡から「頭は猪、胴は龍」「顔は人、胴は龍」「蛟」「鰐のような龍」などの玉器が出土している。凌家灘で出土したものは丸くて平たい玉製の龍で、頭と尾が連なり、口が浮彫りされていて、頭には二本の角があり、ひげ、口、鼻、眼の彫刻も鮮やかだ。頭の二本の角から、専門家は、これを考古学上発見された最古の玉龍で、玉龍の形状、伝説の内容、そして文献上の龍に関する記載内容がすべて合致したものだと考えている。
古今、中国では結婚を祝う際に、「つがいの龍と鳳凰」という一言で新郎新婦の幸せを祈る。この表現はいつ頃から使われるようになったのだろうか。凌家灘で出土した「頭は龍、首は鳳凰」の玉璜は、少なくとも5000年以上前のものだと判明している。玉璜の中ほどの底部には継ぎ目があり、そこには穴と溝もあるので、専門家は、これは龍と鳳凰をそれぞれ象った半円形の玉器がつがい構造で一体となる玉璜で、当時の龍氏族と鳳氏族の婚姻の結納品ではないかと推測している。そして、この玉璜は5300年前にここですでに族外婚が行われ、婚姻制度が文明の新たな段階に進んでいたことも物語っている。
凌家灘で出土した玉鷹は、顔を脇に向け、今にも飛び立つかの如く翼を広げ、くちばしは鉤のようで、穴で表現された眼がとてもよく目立つ。勇壮な鷹はよく勇気と力の象徴とされるが、ある専門家の考証によれば、この玉鷹は恐らく凌家灘の先住民である少昊一族の紋章ではないかということだ。また、別の専門家は、玉鷹と祭祀の関係に着目し、玉鷹の胴体の中心部に刻まれた輪とその外側の八角紋が太陽と太陽光を表し、鷹の両翼の先端に刻まれている猪の頭は供物で、これは鷹に供物を背負わせて天空へはばたかせ、天神に捧げるという意味と庶民の天神に対する祈りが込められていると考える。いずれにせよ、玉鷹は集落の象徴であり、太陽と鳥と猪に対する崇拝を表すトリニティであり、中華民族が遥か昔に初めて鳥類と哺乳類を結合させたトーテム的象徴といえる。
ところで、今年は寅年だ。中国の虎に冠する文化には悠久の歴史があり、その内容も豊富で多彩だ。民間では百獣の王である虎を破邪の神とみなし、自宅の広間の高いところに虎の画を飾ることで家内安全を祈願したり、子供の衣服や靴、帽子などに虎の顔を刺繍することで子供の健やかな成長を祈願したりする。歴代の王朝、皇帝は虎を軍神と崇め、武士を「虎賁」(勇士を意味する中国語)、将軍を「虎将」(勇将を意味する中国語)と称し、また、「虎符」を兵事の神物とした。凌家灘では多くの虎の頭の玉璜が出土し、それらの中には両端とも虎の頭が彫刻されているものもあれば、一端は虎の頭で、もう一端は平らに加工され、いずれも穴と溝がある。これは前出のつがいの龍と鳳凰の玉璜と同じで、二頭の虎の頭がつがい構造で一体となる虎の玉璜で、「虎符」と同様、兵権或いは部族間で軍事同盟を結ぶ際の契約の証にしたのではないかと考えられている。
2007年5月の第五次発掘作業時には玉猪が出土した。それは全長72センチ、重量88キロの、天然玉石を原材料とする抽象的造りのものだった。浮彫りされた猪の口、鼻、そして口の両端から生える牙が印象的で、同時に、削り彫りされた眼と上向きの耳、たくましい首、盛り上がった背中が、この雄猪の躍動感をよく表している。
安徽省文物考古研究所の楊立新所長は、これは中国考古学上最大級、最重量級、そして最古の玉猪で、凌家灘の先住民の猪に対するトーテム崇拝と富の象徴を物語る証左だと考えている。張教授は、玉猪が出土した後、この至宝をベッドで抱くように保管、観察した。古今、中国では神と祖先を祀る際に、雄猪を一頭丸ごと供物として捧げる習慣があり、この玉猪は強暴そうな雄で、神事に用いられたと考えられる。この玉猪は集落の長の墳墓の入口に安置されていて、別の墳墓に安置されていた重量四・4キロの石鉞と同様、破邪と死者の鎮魂という宗教的機能を持っており、恐らく氏族のトーテミズム的観念を反映するものではないかと考えられる。
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