丘桓興=文 魯忠民=写真
中原の先住民は、燦爛たる黄河文明を創り出した。昔、長江流域は文献記載と出土品が少ないため、「未開の地」と称された。「商の文化」は長江を越えないという歴史学者の説さえある。
1970年代から、考古学者は、江西省樟樹市(元は清江県と呼ばれた)の呉城文化遺跡に対し、10回にわたる発掘調査を行った。そこから、3000年以上前のお城の遺跡と、精美な陶磁器、青銅器および神秘な陶文(古陶器にしるされた銘文や文字)などを発見し、中国内外の考古学界を震撼させた。「呉城文化は江南の文明史を書き替えたばかりではなく、中国の歴史をも書き替えた」と多くの専門家から高く評価された。
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江西省博物館 |
江西省博物館館長 彭明瀚博士 |
5000年前の城址と祭壇
樟樹市はもと清江県と称し、長い歴史を誇るところである。その67ヵ所の文物遺跡のなかで、築衛城がもっとも古いとされる。
樟樹市博物館の馬思義副館長の案内で、市街区の東南9キロにある築衛城を訪れた。馬副館長は30年以上考古の仕事に従事し、築衛城のすべてをよく知っている。外城の南城壁に登る。一面緑の敷物のような古城跡。東は内城、西は外城、その間に見える河道はかつては一つながりになった内部を守る堀である。外城の外側には、自然の河道と人工的に掘削した堀がある。当時、堀から掘り出した粘土を積み重ねて城壁をつくる、一挙両得であった。城壁の裾幅は20メートル前後、上部の幅は2から4メートルぐらいある。一番高いところは20メートル以上、一番低いところでも6メートル以上。城址は東西410メートル、南北360メートル、総面積は14万7000平米である。古城には6つの城門がある。
内城に入って、その北側に来る。ここは南より3メートル高く、からっとしてすがすがしいから、当時の居住区だったと馬さんが言う。1970年代、北京大学、廈門大学の考古学部の先生と学生と、江西省および樟樹市の考古学者が共同で2回発掘を行い、4500年前から5000年前の遺物が出土した。そのなかには、石器の斧、刀、シャベル、ノミ、やじりなど、陶器の鼎、カン、豆碗(たかつき)、大皿、壺、杯、簋(昔の食器。口が丸く両耳がついている)、甕、陶(陶製の食器)、ふた、紡輪、網の錘りなどがある。石斧や石チョウナなどの生産工具が多いところから、ここは「焼き畑」の原始農業段階で、しかも網の錘りと石のやじりから、漁業や狩猟が中心であったと専門家は見ている。
馬さんはわざわざ内城の東門まで案内し、そこを出て、城壁近くの古い窯の跡を指しながら、ここには7つの高さ1メートル以上、直径2メートル近くの当時の饅首窯(丸い形の窯)があると紹介した。そのころの製陶は、手製、ろくろ製と泥の紐を積み重ねる方法があった。造形がシンプルで素朴、表面の粗い生産工具、炊事道具、食器、容器と紡輪などが焼き上げられた。
言っておきたいのは、外城の西南部にある、高さ2メートルのひら台である。馬さんは台上の高さ約1メートル、直径10メートルの環状の土壁を指しながら、当時の祭祀場だと言った。真ん中の大きな穴と周りのたくさんの小さな穴から推測して、当時、大きな柱を真ん中に立て、周りを木柱で囲って泥を塗り壁とし、上には木を渡し、稲わらで屋根を敷き、円形の祭祀場を築いた。原始氏族の村人たちが下の祭祀広場に立ち、祈祷師は祭祀場で豊作と平安無事を神霊に祈願する。
博物館の李昆館長は、長年にわたる研究に基づいて祖先の建築理念を推測した。つまり、内城と外城の間の一本の河は、つまり「河を挟んだ両岸」で、当時の「工業区」に相当する製陶工場を城外に移し、汚染を減らす。一方、砂と赤粘土を混ぜ合わせた築城は、数千年も完全無欠で、「コンクリート」の堅固さがうかがえる。内城を先に建て、人口が増えてから外城を増築し、古い城と新しい城が一体となり、互いに依存し合う。
帰る途中、古人の建築計画と配置の妙に思いを巡らせた。内城と外城の間の河道(堀)は、雨天に雨水を集めるだけではなく、晴れた日も涼しく、また消防用水にも使うことができる。周りの城壁は、西と北の壁が比較的高く、西北角の最高所は21.7メートル、これは内城北壁に隣り合っている居住区を冬の北西風から守るためである。そして、東城の外の北端に建てられた甕城(城門の外を取り囲む半円形の小城郭)は、疑いなく居住区の防衛力を強めた。祭壇と祭祀広場の下には、西の壁から連なる幅約1メートルの隠蔽通路がつくられている。雨水の排出に使われるだけではなく、緊急時の撤退通路ともなる。
2001年、築衛城は国務院により全国重点保護文物単位と認定された。
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呉城遺跡から出土した陶製の面具 |
呉城遺跡から出土した陶製のたかつき |
呉城文化 都の所在地
1973年、樟樹市の市街地の西南30キロにある呉城村で、もっと規模の大きい古城遺跡を発見した。北京大学、廈門大学、中山大学の考古学部の先生と学生、江西省および樟樹市の文物部門による10回にわたる共同発掘で、内外を驚かせる成果を得た。この「呉城文化」遺跡と命名された遺跡の面積は4平方キロで、遺跡の中心部の城址面積は、61万3000平米である。発掘している5363平米の中、敷地、陶窯、井戸、鋳物作業場、道路、祭祀場、穴蔵、墓、城壁と城の堀などの重要遺跡が整えられた。わりと完全な形で出土した石器、青銅器、陶器、原始磁器、玉器、象牙細工など4000点、陶磁器と石器に刻まれた文字符号は200以上、幾何図形の文様や陶文様は40種以上等々。
地層の重なりと考古資料の分析研究によって、有名な考古学者李伯謙教授は、ここは呉城文化の都の所在地であり、4、5百年続いたと見る。国家文物局の結論は、商(紀元前1600~同1046年)の中晩期の都市遺跡とする。
呉城文化研究の専門家である江西省博物館の館長彭明瀚博士は、我々の取材に、都市、青銅器と文字が文明社会の3つの要素であるが、呉城の遺跡からこの3つがすべて発見されたと言った。
まず都市に関して言えば、古城遺跡から大型の宮殿建築は発見されていないものの、敷地4平方キロ、城址面積61万3000平米というのは、城郭都市の規模を備えている。城壁の周囲は2860メートル、現存する高さ3~15メートル、底の幅21メートル、上の幅は8メートル、しかも東・西・南・北と東北の5つの城門があった。城外には幅6メートル以上、深さ3メートル以上の城を守る堀があった。城内はすでに、居住区、祭祀区、製陶区、鋳銅区などが整えられた。同時に、祭祀広場と、玉石、陶片を敷き詰めた長廊式の道路と祭壇を発見した。これらは当時強大な力を持った城郭都市が存在したことを物語る。さもなければ多くの労働力を組織し長時間を掛けて、このような大規模な都市を建築することはできない。
城郭都市の範囲について、贛江の中下流と鄱陽湖西岸の平野、つまり今日の峡江、新幹、新余、樟樹、永修、徳安、瑞昌などの県と市で、百以上の呉城文化に属する集落を発掘したと彭館長は言う。これらの密集した集落の人や物がなければ、この城郭都市は完成しないし、当時の貴族や軍隊を養えないし、陶磁器、青銅鋳造、玉文化の繁栄もありえなかった。
城郭都市の住民に関して、原住民の梟陽人もいるし、夏(紀元前2070~同1600年)以来、中原の争奪戦に破れて、南へ移った三苗人もおり、また商の湯が夏を滅ぼした際、商王の追撃を避けるために今の江西省へ移った夏人の傍系の戈氏族と虎氏族もいる。甲骨文の中の商王が攻めて失敗した虎の城郭都市についての記録は、まさに呉城文化区のことである。
文化交流を促した銅の貿易
呉城の国都の銅器の鋳造作業エリアで、銅器鋳造用の石の鋳型300点以上と大量の銅の滓、木炭が出土し、当時の銅の鋳造業の発達のようすがうかがえた。1989年、呉城遺跡の東南20数キロにある新幹県大洋洲で、商の時代の墓から発見された多種の精美な青銅器475点は一層呉城の青銅文明の輝かしさと素晴らしさを裏付けた。
呉城文化エリアはやはり銅の産地である。呉城の北200数キロの瑞昌市銅嶺で、中国ないし世界でも、開採年代がもっとも早い銅鉱遺跡が発掘され、先住民がすでに科学的な探鉱法と完備された採鉱技術を持ち、ここでは露天、立て坑などの方法で大面積採掘していた。当時の立て坑、トンネル、鉱物の引き上げ、運輸、照明、通風、管理などの面でもかなりの技術を持っていた。精錬や鋳造の面でも、相当のレベルに達していた。呉城は銅資源を握っていたので、経済の発展を有利に進めた。当時、中原地区は銅が不足し、農耕具はまだ石の犂などしかなかった。しかし、この地は銅があるため、青銅の犂や耜、鎌など11種の農具により、農業生産が発展していた。これは新幹大洋洲から出土した使った跡のある銅製の犂の刃によって裏付けられた。しかも呉城から出土した陶器に記された「入土材田」の文字、つまり「田の神様を祭り、犂で田地を耕す」という意味からすれば、当地はすでに犂で農耕する時代に入っていたことがわかる。
中原地区は銅を産出しないため、商王朝は祭祀の礼器や戦争の兵器をつくるために、大量の銅を求めていた。呉城は商王朝と隷属関係にないため、朝貢する義務はない。商は武力で降伏させようとしたが、思い通りにはいかなかった。結局、呉城と物物交換の国境貿易をするしかなかった。
有無相通ずる貿易活動は、人類の社会文明と進歩の表現である。銅の貿易を通して、江南の呉城文化と中原の商文化とが交流し融合したのである。たとえば、呉城は商文化の礼儀制度を学び、鼎のような青銅礼器の製作をまねた。
しかし、自分の政治意識や宗教信仰を持っている呉城文化は商文化のすべてをまる写しにするのではなく、自分にとって有益な部分だけを汲み取り、自分の文化の特徴を失うことはなかった。たとえば、商王朝の贅沢の限りを尽くした「酒池肉林」や、爵などの酒器はいくら精美であっても、呉城文化はそれに手を染めることはなかった。また、青銅兵器も商王朝のものを絶対に取り入れなかった。中原は平原の陸地で、つねに戦車による作戦だったが、江南の呉城は水郷地帯で、木船がよく使われるためである。その地の状況に適した兵器でなければ敵を制することができない。
西周初年のころ、瑞昌銅嶺の銅鉱はほぼ採り尽くされていた。このころ、安徽省の銅陵で銅鉱山が発見された。そこで統治者にもっとも信用され、優れた銅採掘と精錬技術を持っている氏族が銅陵に派遣され、銅資源の制御にあたった。同時に、周王の長男・太伯は国を弟に譲り、中原からこの地に移住した。まもなく、地元の大多数の氏族が太伯について、江蘇の呉県一帯に移り住み、江南を開発して、呉文化を築き上げた。
心を奪う原始磁器
呉城遺跡から大量の陶磁器が出土した。その種類の豊富さ、造形の精美さ、製作の細やかさ、紋飾の整然さ、どれも驚くほどのレベルに達し、国都としての地位や技術の高さがうかがえる。江西の陶磁器は長い歴史を有する。呉城遺跡の東北約200キロの万年県仙人洞と吊桶環遺跡で、中国と米国の考古学者たちは1万2000年前の稲の栽培種の標本や荒砂の紅陶を発見し、国内外を震撼させた。長い歳月を経て発展し、商の時代になると呉城の陶磁器職人は知恵や創造力を活かして、特色あふれる印紋がついた硬い陶器や原始的な青磁器をつくり出した。
呉城で作られた原始的な青磁器は世界最古の磁器であるだけではなく、その魅力は尽きない。当時の中原地域ではこの種の磁器を焼けなかったため、商の王族は呉城から買い入れるしかなかった。長距離の運送は困難で、しかも磁器は割れやすいため、それだけに一層貴重で、青銅器よりも珍重されていた。商王であっても、わずかしか副葬品とすることはできなかった。
原始的な青磁器をつくるには、砂礫を徹底して洗ったカオリン土で生地をつくり、その内と外に黄緑色の透明の釉をかけてから、「青磁の揺りかご」といわれる龍窯で焼くと、初めてこのような硬い、淡いすっきりした黄緑の色が浮かび、叩くと澄んだ音がする原始的青磁器になる。呉城遺跡で発見された龍窯はすでに3000年以上の歴史を持っていて、今なお中国の最古の龍窯遺跡の一つである。
ちなみに、江西の陶磁器職人は、呉城などの陶磁器技術を代々受け継ぎ、つねに発展させ新たな創意工夫を加えている。とくに景徳鎮は、ここで作られた陶磁器は美しく、世界中で人気を呼び、国内外にその名を知られる「陶磁器の都」になった。
陶文 南方の古文字
文字は言語を伝え、保存する符号であり、人類の文明を象徴するものの一つである。河南省安陽殷墟で、商の時代の亀の甲や獣の骨に刻まれた占いの言葉や記録的な文字、世に言う「甲骨文」が大量に発見された。出土した4500の甲骨文の文字のうち、判明したのは約1700文字で、成熟した文字系統に属する文字であるとされている。
呉城や大洋洲などの遺跡から出土した8次にわたる113点の器物の中から、陶磁器や石器に刻まれた文字や符号(陶文)160数個が発見された。ほとんどは独立した文字あるいは符号だが、2文字、4文字、5文字、7文字、12文字の辞句もあった。有名な古文字研究者の唐蘭さんは、ある陶缶の肩に刻まれた八文字ともう一つの缶の底に刻まれた4文字「入土婦田」の文字を、甲骨文中の同類の文字に似ているとし、同一文字系統に属すると考えた。しかし、別の二つは商や周の文字とまったく異なる文字で、おそらくもう一種の失われた古代文字かもしれない。これは商の初期、中原の文字がこの地に伝わり、しだいに普及し、もともとあった原始文字が次第に衰退し、消え去ったのであろう。
彭館長は陶文についてかなり深く研究し、呉城陶文に三つの特徴があると考えた。一、大多数の陶文は象形文字系統に属している。たとえば、目、鏃、戈、田、土、刀など、ほぼ実物に照らしてそのものを描いた図形である。二、すべての陶文は焼成する前に尖ったものを使って、生地に刻んだり、専用の型で形を作ったりしたものである。製作者はもっぱら陶磁器を製造する職人であることがわかる。たとえば、戈、五のような文字は戈氏、五氏という製陶の家系による作品という印である。三、すべての陶文は形が整然として、書法が素晴らしい。同じ人の手によるものだと考えられる。当時は誰でも字が読め、書けるというわけではなく、製陶の一門の上層部の識字者が陶器製作者のために陶磁器に文字を刻んでいたと考えられる。
人民中国インターネット版 2010年8月24日
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