中国切り紙の歴史 文=力強 切り紙は、古代の金属に模様を施した技術を源とする。それは、金属を材料とし、女性たちは金、銀を薄くのばしたものと、色つきの絹を花や鳥などに切り抜き、飾り物とした。 1959年から1966年、中国新彊のシルクロードのアスターナ古墳群からは、5幅の切り紙が出土し、専門家の認証を経て、その創作年代は、南北朝(420~589)とされた。切り紙の図案は、丸い馬の模様、丸い猿の模様、丸いスイカズラ模様、八角の模様、菊の花の丸い模様である。これらの5幅の切り紙は、花卉とその内容の図案を、紙を重ねて切ることにより切り出したものであり、構図形式および、切り紙の技も相当に成熟したもので、技術レベルはすでに、相当に高いものに達している。 中国古代には、天地開闢について「初日、鶏、2日、犬、3日、豚、4日、羊、5日、牛、7日、人、8日、穀物」と伝えられていた。もっとも重要なのは、7日目に人間が出現したことであり、毎年、旧正月の1月7日には、「人日節」が行われる。南朝には、人日節のこの日には、人の形を切り抜き、屏風に貼るか、または髪の上に飾り、新春をむかえた。これはすでに切り紙である。 隋唐の時代には、毎年の立春と「人日節」には、人々は色つきの紙や金、銀をうすくのばした板を切って人の形とし、屏風の上や髪のまげに飾り、それはすでに伝統の習俗となっていた。 唐宋の時期、切り紙は非常に流行し、唐代には皇帝が春、臣下に接見するにあたっては、金や銀をうすくのばした板や、絹を模様に切り抜いたものを渡し、勝利の幡、と呼んだ。金属の板をきりぬいたもので勝利を願う風習は、民間にも広くひろがった。唐代の大詩人、李商の「人日」という一首の詩のなかに次の2句がある。「金属の板を切り抜いたもので勝利を願うのは、荊州の習俗として広がり、人を切り抜くのは、晋の風習である」。杜甫は、安史の乱のおり、家族を連れての避難のなか、友人に招待され、「彭衙行」の詩をうたった。それには「温湯が我が足を濯ぎ、切り紙が我が魂を呼びもどす」とある。杜甫が「切り紙が我が魂を呼び戻す」とうたったのは、切り紙は、厄除けとなり、また切り紙によって、死者の霊を呼び戻し、心を安らげるのは、すでに一種の民間習俗となっていたからである。これらの説明は、切り紙には、実用価値があり、ただの鑑賞物でなかったことをあらわしている。 宋代にも、皇帝は春に多くの臣下を招き、「春の勝利の幡」を賜る習慣があり、切り紙の技術レベルは大幅にあがった。南宋時代には、周密の「志雅堂雑鈔」のなかに興味深い記述がある。それは、一人の若い切り紙の名手が、袖のなかで字や花を切り抜いた、というもので、当時、とても有名な作り手となっていた、という。当時には、少なくない工芸品が、切り紙の模様を借りて刺繍や陶器を作り、切り紙は、民間芸術にむかって発展した。 元代には、江南地方の梅雨の時期、人々は、手にほうきをもった女性の人形を切り抜き、屋根のひさしの下にさげ、天に向かって幸福と、雨雲を払い、太陽を迎えることを祈り、その名は、「晴れ掃く女」という。黄河のほとりの農村では、いまもこのような習俗が残り、人々はこのような切り紙を「天を掃く女」と予備、長雨を防ぎ、洪水を予防するよう願う。記載によれば、このように切り抜いた人や馬を紙のうえに貼って灯篭の壁にすると、ロウソクの熱風によって灯篭が回転し、それはもっとも早期の回り灯篭といわれている。 明代の詩人、瞿宋吉は、その詩のなかで、「南瓦に影絵場ができ、満堂が火に照らされ、烏江渡から英雄が覇王を語るのも見える」と記している。詩のなかには、影絵芝居の公演の盛況が描かれ、それは切り紙工芸品が劇のなかで広い範囲にわたって応用されていたことを示している。明の「蘇州府志」には、趙萼という人物が切り紙を制作する様子が記述されている。 清代には、満州族が切り紙を好んだため、清の宮廷に重視され、切り紙は宮廷にのぼった。清代には、切り紙芸術は、大きく発展し、切り紙は、人々のくらしのなかで応用される範囲がさらに広くなり、人々のすべての生活領域に、ほぼ、及ぶようになる。例えば、身にまとうもののなかで、刺繍が必要とされる場所から、祭事、禍を裂け、幸福を祈り、冠婚葬祭、跡取り息子、芝居の活動にまで及ぶ。清代の北京城内では、前門の外には、刺繍の型紙を売る専門の業者がおり、刺繍をした靴の側面や、赤ちゃんの刺繍入り腹掛け、ハスの花の形の刺繍のサイフなどを売る店に卸していた。近現代において、切り紙はさらに発展している。
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