「知日派」を目指して
山東大学 張笑笑
中国の20代の若者にとって、日本とのつながりはほとんどアニメから始まったのである。私もその例外ではない。小学校の頃、私が一番関心を持ったのは「スラムダンク」で湘北チームが勝利できるかどうか、また、「名探偵コナン」のでは事件の真犯人はいったい誰なのかということであった。一日の最後の授業が終わるまであと5分ぐらいともなれば、私はすでに自分のランドセルを片付けはじめるのであった。そして、ベルが鳴ったとたんに最速のスピードで教室を出、友達と競うように走って家に帰った。その理由はただ一つ:放課後すぐ始まるアニメの放送を一分間でも見逃したくなかったのだった。あのごろの私には、もちろん、日本という概念はまだはっきりわからなかったわけだが、それにもかかわらず、アニメに発する日本への関心は、今の私の中で大きくふくらんできているのである。
大学に入って日本語科を選んだのは偶然であった。しかし、今にして思えば、日本語と出会えて本当によかった。一年生の時、ゼロから習いはじめた日本語は私の生活のすべてだといっても過言ではなかった。仮名、漢字、単語、とまどいながらも日本語への道を歩き出した。初めて五十音図を覚えた。初めて自分で文を作った。初めて作文を書いた。そういうひとつひとつの進歩を積み重ねてここまで来たのである。日本語は私の生活に欠かせないものになった。
言葉を習うにはその国の文化を知らなければならない。文化を勉強する過程は私にとって謎を解く過程でもある。最初は理解できない日本人の習慣や言葉や考え方などは日本文化を知ったあとわかるようになった。例えば、厳しい上下関係があるからこそ、複雑な敬語がうまれた;「和」を保つために、言葉があいまいになった。このように日本語の背後には、広く深い世界があるということを認識した。
去年の夏、私は初めて日本にいった。この目で日本を見、この身で日本を感じて、いろいろ貴重な体験をした。自分がまだ知らない、さらにさらに知りたい日本事情がいっぱいあることに気づいた。
実は空港に着いたとき、すぐ意外なことに気がついた。リムジンバスに乗る時、荷物を運んでくれたのは若い男性ではなく、白髪のおじいさんであった。また、滞在の間、あちこちで働く中高年の人をよく見かけた。タクシーやバスの運転手さんにしても、スーパーの店員さんにしても、中国に比べると中高年の比率はずいぶん高い。日本社会の高齢化を実感した。ただ、私が出会ったおじいさんにもおばあさんにも共通点があった:年寄りにもかかわらず、みんな元気で明るい顔をしている。みんな若者に劣らないやる気で仕事をしている。彼らのひたすらに努力する姿に、私は少なからぬ感動を覚えた。
さらに、感動したのは日本人の野球への情熱である。野球は中国ではあまりポピュラーなスポーツではないが、日本で一番人気のあるスポーツだといっても過言ではない。野球の魅力を感じたいと思って、甲子園球場へプロ野球の試合を見にいった。ルールは全然わからなかったが、球場の熱い雰囲気に影響され、自分もみんなと一緒に叫んだり、拍手したり、知らない選手を応援していた。野球のファンたちは同じ服を着、同じ選手の名前を叫び、同じ歌を歌っている場面をみて感動せずにはいられなかった。その中にはまだ3、4歳の子供もいた。とても真面目な顔をして父の説明を聞いている。将来、きっと父と同じように熱烈なファンになるのだろう。
またゴミの細かい分別には、感心した。たとえば、ペットボトル一本でも簡単に捨てるわけではない。正しいやり方は本体とキャップ、そして、ラベルと三部分にわけて捨てるというのだ。本体は「ペットボトル」の日に出す。キャップとラベルは「プラスチック容器包装」の日に出す。面倒くさく煩わしいにもかかわらず、環境のために日本人は文句一つ言わずしている。
日本人の防災意識・教育も印象的である。1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、阪神・淡路大地震がおきた。その地震は広域にわたる甚大な被害を与えた。「阪神・淡路大震災記念人と防災未来センター」は阪神・淡路大震災の経験とそこから学んだ教訓―防災の重要性、いのちの尊さと共に生きることの素晴らしさなどを後世に継承する施設である。また、その経験と教訓を生かし、防災に関する知識および技術の普及を図ることにより、地震などの災害による被害の軽減に貢献する施設でもある。私たちはそこも見学した。震災追体験のフロアでは今でも忘れられない体験をした。1.17シアターでの体験であった。そこで上映されるのは地震発生当時の映像であった。衝撃の映像は目の前の大画面で、床の振動とともに、大音響で体感することができる。ビルがあっという間に倒れる。橋が何秒で折れる。大自然の力は一瞬ですべてを壊したのだ。迫力のある映像を見ているうちに、私は本当の地震にあったような気がして、あまりの恐さで叫びだしてしまった。それは、私だけではなく、観客の多くがそうなのだ。これを通して、私たちは地震の怖さを知り、防災の重要性をしみじみと意識した。さらに、防災・減災体験フロアで、私もいろいろ勉強した。そこには家具を固定する道具から懐中電灯まで、様々な防災用品が展示されていた。ガイドさんは親切に用途や使い方を説明してくれた。もし前もってその知識を知っていたら、たくさんの命が助けられると思った。人間が自然災害の発生をコントロールすることはできないかもしれない。しかし、防災意識をもって、適切な対策とれば、その被害を最小限することが可能なのだ。私にとっては、中国で経験できない貴重な体験となり、日本への関心は、ますます強くなっていった。
日本を知れば知るほど、私が関心を持つ日本事情は減るどころか、ますます多くなる。二年生の時、日本人の先生は日本に帰る前に私たちにこういった:日本語を勉強して、「親日派」にならなくてはいい。しかし、「知日派」になってほしい。中国の記者白岩松さんも彼の本の中でそう書いている:日本を愛するあるいは恨む前に、まず日本を知ってくださいと。私は日本についてもっともっと知りたい。これからも「知日派」を目指して頑張りぬく覚悟である。
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