中日文化の差異と相互理解
——食文化において
常熟理工学院 袁婷
いつの間にか、日本語の勉強を始めてすでに三年が経た。最初は日本語どころか日本という国についてさえ何も知らなかったが、今はただ日本語で自分の考えを表すことができるだけではなく、日本人と交流できるようになり、本当に何よりもうれしい。この三年間の中で、楽しいにつけ苦しいにつけ、勉強すればするほど、日本の言語や文化に興味を持つようになった。学校の先生の紹介で、私は日本人の中国語の家庭教師になったが、それを機会に、家庭教師先の日本人が私にいろいろな日本文化と事情を、とりわけ日本の食文化を教えてくれた。私は日本の食べ物と食事マナーを通して、身をもって日中の異文化を体験した。
中国人と日本人は同じアジア人であり、中国と日本は「一衣帯水」の隣国である。今から1000年以上前に日本の留学生がたくさん中国に来た。留学生たちは中国で学んだいろいろな制度や文化を日本に伝え、中国の文化は日本の文化に大きな影響を与えた。例えば、京都も奈良も中国の長安をまねて作った町である。このように、中日文化には似ているところもあるが、やはり違っているところもずいぶんある。
食事の時について例を挙げれば、日本では皆で「いただきます」と言い、それから一緒に食事を始める。そして、食事の終わりには「ごちそうさまでした」と言う。しかし、中国ではどちらの言葉も言わない。また、ラーメンを食べている時、中国では音を立ててはいけない。しかし、日本では音を立てて食べてもいい。音をたてた方おいしそうに感じると言う。他にも、お酒を飲むとき、中国で「乾杯」と言うと、その人はお酒をすべて飲み干さなければならないが、日本では全部飲まなくてもいい。なぜかというと、日本での「乾杯」は「皆で一緒にお酒を飲みましょう」という意味だからである。
では、魚や果物を食べるときはどうか。骨や皮はどこに置くのか。中国では、テーブルの上に置いてもいい。しかし、日本ではそのような行いは行儀が悪く、自分の皿の隅か専用の皿に置かなければならない。その上、日本料理は「目で楽しむ料理」と言う人もいるほど、器や盛り付けに気を使う。
ごちそうになる時にも習慣の違いがあり、中国では料理をわざと少し残す。それは、「おなかがいっぱいになって食べられない。」「食べ切れないほどのおもてなし。」という意味になるからである。しかし日本では、「この料理はあまりおいしくない。」「全部食べることが出来ない。」だから残すという意味になるのである。
ご承知のとおり、中国と日本とは「同じ箸文化の国」である。けれど、中国と日本の箸の形や長さや重さなど微妙に違っているところがある。それに、箸を置く時も、中国では30センチぐらいの長い箸を縦に置くが、日本では20センチぐらいの短い箸を横向きに置く。箸という道具にも違いが生じるのは、やはり中国と日本の食材の違いから来るものだろうか。日本は海に恵まれた国なので、水産資源がとても豊富であることから。魚料理は日本料理の一番重要な位置を占めている。日本の箸は軽くて先端が細くなっているが、これは魚の食べ方と頻度に関係があると思う。
このように、食文化は毎日の生活に密着しているものなので、コミュニケーションの糸口としては最適だと思う。食文化の交流も国際交流の大切な一つの手段である。実は、日本の食べ物はもう私たちの日常生活に入ってきている。「関東煮」と「章魚小丸子」と呼ばれている人気食品は日本の「おでん」と「たこ焼き」のことである。同時に、日本にも中華料理店がたくさんあり、さらに、驚いたことには、家で「マーボーとうふ」を自分で作れる人もいる。ただし、「郷に入っては、郷に従え」。「関東煮」と「章魚小丸子」は日本の食べ物であるが、「関東煮」も「章魚小丸子」も中国人の好みに味を改良し口に合うようにして売られている。日本で見た中華料理が、本場の中華料理と違うにもかかわらず、日本人が好んで食べるのはすでに日本人の口に合うように改良されていることが一番の要因だと思う。これらは文化の相互理解ということである。もし中国で納豆を売れば、日本で鶏の足の爪を売れば、きっと食べる人は少ない。食べ物に限らず、相手を理解することが国際交流、国際発展の基本なのである。
中日文化はどちらも尊重すべき文化であり、どちらが正しい・間違っているというものではない。大切なことは、どこに違いがあるのかを知ることである。異文化を理解するということは、あなたがそれを受け入れ、実行するということではない。その文化を自分の文化と違う文化として尊重することである。
国と国との間における相互理解はまず個人個人の深い交流から始まるものだと考える。だから、私はこれからも、日本人と交流をつづけ、食文化以外の日本の文化をより深く理解し、そして、中国の文化を日本に紹介していきたいと思う。
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