人民中国雑誌社 東京支局支局長 賈秋雅
支局スタッフの光部愛さんとともに、中国の新潟総領事館開設を取材するため新潟市に出張中だった。大時震が起きたその時、新潟市中心部にそびえる高層ビル31階のガラス貼りの展望フロアにいた。高層ビルは時計の振り子のように、大きく、長く揺れた。
テーブルの上のコーヒーのカップがカタカタと音をたて始めた。「地震だなぁ」と軽く感じたが、そのうち揺れはますます激しくなってきた。光部さんは床に両膝をついて、机をつかんでうずくまった。唇が乾き、顔は真っ青。1分、2分……5分間ぐらい、「もう死ぬかと思ったとき、揺れはようやく止まった」
光部さんは1995年の阪神淡路大震災で被災した経験がある。「あの地震の時より恐ろしかった。家族や友人の顔が次々に脳裏をよぎった。展望フロアから見ていた信濃川や佐渡島の景色の中に落ちて行くのではないかと思った。死ぬほど怖かった」
館内放送が流れた。「地震です。エレベーターは運行停止。非常口を使ってください」。ビル係員の誘導で、私と光部さんを含め14人が階段で下に降りた。先頭はお年寄りの夫婦。ゆっくりゆっくり階段を下りた。しかし誰も追い立てたりはしない。みんな秩序正しく歩いた。フロアとフロアの間には巨大な耐震装置が設置されていた。
「だからこんなに高い建物でも大地震に耐えられるのだなあ」と私は日本の耐震技術に感心した。
電話もかからない。新幹線も運行停止。新潟市内のホテルは満員。郊外にあるホテルに空室があり、やっとチェックイン。
夜になっても新潟、長野を中心とした甲信越地域に、強い地震が10回以上も起こった。揺れが続く。ヘルメット代わりに、やや硬そうなごみ箱をもちながら、一晩中、ベッドと机の間を行ったり来たり。夜明けまで寝られない。
翌日の昼、上越新幹線の運転再開の情報が流れた。私たちは新潟駅へ駆けつけ、チケットを求める長い列に並んだ。この日のうちにチケットが入手できるかどうかは分からないと焦ったが、幸い運転再開された新幹線に乗れた。
車内では、乗客たちがなるべく身を横たえるように座り、いつ襲ってくるかもしれない地震に備えていた。
人民中国インターネット版 2011年3月15日
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