文=岡田紘幸
大地震発生、そのとき私は上海にいた。地震発生を知ったのは15時前、地下鉄2号線の中で知人の会社へ行く移動途中のこと。車内テレビに映る速報を何気なく発見。まだ勉強中のため全文は理解できないが、「日本」「地震」「M8.6(当時)」などの表記に目を疑った。地域までは読み取れず、まず名古屋の両親の安否が気になった。上海に着いて1週間半ほど、最悪の事態を想像して背筋がゾクッとした。
知人の会社で、真っ先にノートパソコンを取り出しインターネットを開いた。ヤフーニュースを調べる。日本のニュース速報を頼った。発信源はどこか、私の地元は大丈夫なのか、東京などの友人は安全か、など。親にすぐ連絡を…ただ過去の阪神や新潟の震災時のように、日本の電話は混線しているだろう。メールで連絡した。祈りながら待つこと数十分後、安全の確認が取れた。よかった、と一安心したが「恐怖を感じた」との内容も記されていた。
夜にCCTVなどを見た。これが生まれ育った国の今の姿なのだろうか、と。仙台に住む友人もいる。安否が心配だ。日本を思えば思うほど、心が痛くなった。夜は時に切なくなった。何もできない自分に無力さを感じた。
日に日にニュースの被害報告は大きくなっていく。周りの中国人学生は「ご両親は大丈夫でしたか」「信じられない、私も悲しい」「毎日ちゃんと生きていることは大切ですね」と声をかけてくれた。今の心の救いは上海に住む日本人仲間。同じ思いを抱き、連絡が取れないままの友人親戚を思うと心配ではあるが、祈りながらも今は自分の仕事や学業に専念するしかない、という姿を見たことで私も落ち込んでばかりはいられない。
上海から何ができるだろうか。以前に少し、四川大地震の募金活動を名古屋で行ったことがある。次は自国のために、何か行動する番だ。名古屋の仲間と協力して、微力ながら募金活動を行う準備は進めている。支援に関して、主にネット上でいろんな情報が錯綜している様子。適切なルートで必要なものを必要な被災地へ、確実に届く形で展開してほしいと願う。
人民中国インターネット版 2011年3月17日
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