【第7回党大会】
1945年4月23日から6月11日まで、第7回党大会は、延安の楊家嶺中央大講堂で開催された。会期は50日だった。大会に出席した正式代表は547人、候補代表は208人で、全国の121万の党員を代表していた。
大会の主要な議事日程は、毛沢東による政治報告(『聯合政府論』)、劉少奇による党規約の改正報告、朱徳による軍事報告(『解放区の戦場を論ずる』)、周恩来による報告(『統一戦線を論ずる』)、任弼時による党の歴史問題に関する報告、新しい党規約の制定、新しい中央委員会を選挙であった。
6月9日、44人の中央委員を選挙し、10日、33人の同候補委員を選挙した。11日、大会は閉幕を迎え、毛沢東が『愚公 山を移す』と題する閉幕の辞を述べた。
大会は、毛沢東思想の全党における指導的地位を確立し、歴史の経験を総括して新民主主義の新中国を作り上げるために、正しい路線、方針、政策を制定して、思想的、政治的、組織的に、全党をかつてないほど団結させた。
続いて開かれた一中全会で、毛沢東を中央委員会主席兼政治局、書記処主席に選出、書記処書記に毛沢東、朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時が選ばれた。
【第8回党大会】
第8回党大会の第一回会議は、1956年9月15日から27日まで北京で開催された。正式代表は1026人、全国の1073万人の党員を代表していた。
会議は主に以下の数点を確定した。 (1) 国内の主要な矛盾に関する新しい結論を提起し、党と国家の任務の重点を社会主義建設に移すという重大な戦略的政策転換を決定した。 (2) 総合的でバランスのとれた、着実に前進する経済方針を堅持する。 (3) 思想、文化の建設の重要性を強調する。 (4) 重点的に執政党の建設問題を提起し、党が特定の個人やその人の功績をきわだたせたり、個人の功績をむやみに誉め称えたりすることに重ねて反対する。
この路線は正しいものだった。それは新しい時期の社会主義事業の発展と党建設ための方向を明示した。
一中全会では、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、鄧小平を政治局常務委員に選出した。総書記には鄧小平を選んだ。
第二回会議は1958年5月5日から23日まで北京で挙行された。この会議で通過した社会主義の総路線とその基本点は、広範な人民大衆の切迫した要求――わが国の経済、文化の立ち遅れた状況を改善したいという普遍的な願望を反映している正しい一面があるとともに、客観的な経済法則を軽視したという欠点もあった。
五中全会は1958年5月25日、北京で行われ、中央委員会副主席、政治局常務委員に林彪を選んだ。
八中全会(廬山会議)は、1959年7月2日から8月16日まで、江西省廬山で挙行された。彭徳懐を批判し、黄克誠の書記処書記の地位を取り消し、右翼日和見主義に反対するなどの決議を採択した。
十一中全会は、1966年8月1日から12日まで北京で開催された。8月5日、毛沢東は『司令部を砲撃しよう――私の大字報』を書いた。8月8日、会議は『プロレタリア文化大革命に関する決定』を可決した。8月12日、毛沢東を主席に、林彪を副主席に選んだ。
十二中全会は1968年10月13日から31日まで北京で開かれた。会議は江青、康生、謝富治などが偽証に基づいて書いた劉少奇の罪行審査報告を批准し、永遠に劉少奇を党から除名することを決定した。
この間の10年にわたって、毛沢東同志の、社会主義社会における階級闘争に関する理論上、実践上の誤りはますます重大なものに発展した。彼個人の独断的なやり方は次々に党の民主集中制を損ない、個人崇拝の現象が次第に発展した。
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