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上海・嘉興  党はここで生まれた 第一回大会会場跡

 

金田直次郎=文 沈暁寧=文・写真

中国共産党第1回全国代表大会会場跡。石庫門と呼ばれる独特の両開きの門を備えた入り口が通りに面している。中国全土から参観団が訪れ、参観者は一日中絶えることがない

中国共産党第一回全国代表大会が開かれた建物は上海の旧市街、浦西の盧湾区内に位置する。私たちが訪れたのは昨年の12月24日。ちょうどクリスマス・イブの日で、「新天地」として再開発された一画は、華やかな飾りつけが通りを彩り、多くの市民が繰り出して、たいへんなにぎわいだった。

今でこそ上海の一等地であるこの一画も、90年前にはフランス租界の東のはずれに近く、人通りも少なかった。

代表大会の上海代表だった李漢俊の兄、李書城の住まいを借りて「秘密会議」が開かれたのだった。

代表は13人。コミンテルンから派遣されたマーリンとニコルスキーの二人が加わり、会議は1921年の7月23日から30日までつづいたが、30日に租界の巡査に気づかれてしまう。最終日は、会場を浙江省の嘉興に移し、南湖に浮かぶ遊覧船の船中で、決議と閉会宣言が行われた。

極秘裏に会議が開かれたこの建物はどのようにして発見され、史跡に指定されたのか。私たちは記念館の陳列品と展示から、会場跡発見までの経緯を知ることができた。

30年後に記憶たどり発見

1950年、「会場跡」を見つけ出すように、との指示が中央政府から出たものの、すでに30年の歳月がたっており、李書城・漢俊兄弟も死去してしまっていた。手がかりは会議に在日留学生組織からの代表として出席した周仏海の著書『往矣集』だった。そこには「博文女学校の宿舎に泊まった。(近くの)貝勒路の李漢俊の家で毎晩会議が開かれた」と記されてあった。

周の夫人、楊淑慧が呼び出された。彼女は周の使いとして当時、李家を訪れたことがあったからだ。彼女は博文女学校の付近をくまなく探し、はるかな記憶をたどって、通りに向かって石庫門の入り口が開いた一軒の醤油屋が李家だったのではないかと気づく。外壁はしっくいで塗られていたが、その建物には李家の面影があったからだ。

中央政府は会議出席者の一人、董必武に上海まで出向いてもらった。董が実見したところ、確かに会議が開かれた李書城の住まいだった。

建物は数度の改修を経ているが、内部はほぼ当時のままで、ひとつテーブルを囲んで15人が連日討議を重ねた様子を彷彿させる。

1999年5月、この建物の西隣に、同じ上海の1920年代の建築様式で記念陳列館が完成。多くの貴重な資料が集められ、訪れた誰もがつぶさに参観できるようになった。

館内には当時の会議の模様がろう人形で再現されている。中央に立って発言するのが毛沢東。黒々とした髪を5分に分けた革命家の若き日の姿だ。

 

 

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