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人民解放軍揺籃の地  江西省・井岡山

 

井岡山 風致地区

井岡山は、国家5A級旅遊区(最高ランクの観光地)に指定されており、険しい峰や深い谷、原始林や竹林が織り成す美しい景観の中に散らばる数々の革命史跡が多くの観光客を引き付けている。

作成・金田直次郎

 

この山間に一九二七年十月から三〇年二月まで営まれた「最初の農村革命根拠地」とは、どんなところだったのだろう。  

井岡山革命博物館の展示では「事柄」と「人物」を中心に、さまざまな感動的なエピソードが紹介されていた。  

井岡山革命博物館の中庭に建つ「勝利的起点」の石彫。毛沢東(中央右)と朱徳(左)を囲むようにして「最初の農村革命根拠地」での闘争が描かれている。農民蜂起軍と南昌蜂起軍の「会師」(友軍の合流)が中国革命の勝利を導いたことをシンボライズした力強い石彫。「勝利的起点」の5字は毛沢東の揮毫

農民軍を率いて井岡山に入った毛沢東は、なんとかして南昌蜂起軍との合流を果たそうとする。南昌蜂起軍は北伐を進めた国民革命軍の主力部隊であり、多くの共産党員と労働者によって構成された正規の軍隊だったからだ。毛沢東は心ゆるす部下の何長工に蜂起軍を探すよう命じる。  

毛沢東の密命を帯びて

何長工は毛沢東と同じ湖南省の出身で、毛沢東より七歳若かった。ヨーロッパで働きながら学ぶ「勤工倹学」に勇躍参加、フランスで中国共産党ヨーロッパ支部に入党。帰国して国民革命軍に入り、秋収蜂起では毛沢東に従って井岡山に立てこもった。  

何長工

行方の知れない南昌蜂起軍を探すという使命を帯びた何長工は逃亡兵に成りすまして山を下る。土豪の傭兵に捕まっても動じず、蜂起軍が広東省にいるらしいとの情報を得て広州へ。しかし、朱徳らの居所は杳として知れない。一日、広東省北部の韶関で銭湯に行くと、地元の軍隊の士官たちが先に湯につかって話をしていた。  

「あの王楷は、本当の名は朱玉階といって、おれたちの軍長と同窓だそうだ」

玉階? 朱徳の字ではないか!  

何長工はすぐに宿に戻り、ラシャのオーバーに着替えて軍の駐屯地へ。帰国華僑に変装して警戒ラインを潜り抜け、朱徳に会う作戦だった。朱徳は、雲南講武堂でともに学び、いまは国民党第十六軍軍長として広東に駐留する旧友のもとに身を寄せていたのだ。  

部隊の詰め所で、何長工は陳毅と対面する。二人はフランス勤工倹学以来の顔なじみだった。陳毅の引き合わせで朱徳と会うことができ、何長工は毛沢東の意向を朱徳に伝えた。  

朱徳の率いる南昌蜂起軍は井岡山に向かい、一九二八年四月、井岡山北麓の礱市鎮(現在の龍市鎮)で毛沢東と朱徳が対面。五月四日には両軍合流の祝賀大会が盛大に催された。ここに「朱毛軍」の名で反動派の心胆を寒からしめることになる正規の労農紅軍が誕生したのだ。  何長工が労農紅軍の建設にあたって活躍する様子は『何長工回憶録』に詳しく書かれており、極めて興味深い。

最初は「三大規律・六項注意」

朱徳の率いる南昌蜂起軍が合流したことで労農紅軍の建設に拍車がかかる。後に中国人民解放軍の軍規を代表することになる「三大規律・八項注意」も、井岡山での建軍過程で誕生した。  

有名な「三大規律・八項注意」は、最初は「三大規律・六項注意」だったことを、私たちは井岡山革命博物館の展示から知ったのだった。

井岡山革命博物館内のろう人形展示。 毛沢東と朱徳が天秤棒を担いで食糧を運ぶ様子を再現

一 行動は指揮にしたがう

二 労働者、農民のものは  なに一つ取らない

三 土豪から取りあげたものは   公のものとする

① 寝るために借りた戸板は もとどおりはめておく

② 寝るために借りたわらは もとどおりくくっておく

③ 言葉づかいはおだやかに

④ 売り買いは公正に

⑤ 借りたものは返す

⑥ こわしたものは弁償する

 

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