白色テロ下の中国共産党幼年期

 

中国共産党は、レーニンが指導する第3インター(コミンテルン)の援助を受けて建党した。1921年7月23日、中国共産党第1回全国代表大会が上海で行われたが、出席者10余人は全国50数名の共産党員の代表だった。

当時の革命勢力は、中国を統治する帝国主義や封建勢力の強大さに遠く及ばなかった。中国共産党は、広範な統一戦線の結成の重要性を認識し、孫文が指導する中国国民党との結合を決めた。コミンテルンも、中国共産党と国民党の関係について決議を出し、国共合作を積極的に進める役割を果たした。

こうした状況のもと、中国共産党は1923年6月に広州で第3回全国代表大会を開催し、共産党員が個人の身分で国民党に入党する形で、国共合作を実現させた。1924年1月20日から30日まで、国民党第1回全国代表大会が孫文の主宰で広州で行われた。開会式に出席した代表165人中、共産党員は20人余りだった。国民党第1回大会では、事実上「連ソ・連共・農労援助」という3大革命政策が確立され、第1次国共合作の正式な形成が記されることになった。

国共合作の実現は、中国の大地に帝国主義と軍閥勢力を、強い力で攻撃する革命の大きな流れを起こした。しかし、国民党内部の左右両派はいっそう分化し、国共の関係は次第に複雑さを増していった。

1925年3月12日、孫文が北京で死去すると、全国が大きな悲しみに包まれ、国共両党は各界の人々を組織し哀悼活動を行った。そして、国民革命を呼びかける声は全国各地でさらに高まった。

1926年、共産党と国民党は協力し、中国北方で帝国主義の支持を受ける北洋軍閥に対して、討伐作戦を開始した。これが「北伐戦争」で、北伐軍は勝利を収めた。北伐戦争の勝利に伴い、国民党右派が起こした反共の逆流も出現してきた。蒋介石は次第に最高権力を掌握する人物となり、共産党に対して制限を強め始めた。

しかし、コミンテルンは依然として蒋介石に期待を持ち、決別を望まなかった。1927年4月12日、蒋介石は上海で中国共産党に対する弾圧・虐殺を行い、上海クーデターを発動した。その後、江蘇、浙江などの地域で「清党」の名のもとに、大規模に共産党員などを虐殺した。広東省だけでも2000人余りが白色テロの犠牲になった。4月28日、中国共産党創建者の1人である李大釗が北京で革命に殉じ、7月15日には、国民党中央常務委員会が拡大会議を招集し、正式に共産党と決裂、第1次国共合作はここに完全に崩壊した。

中国共産党は当時、1支部として直接コミンテルンの指導を受けていた。コミンテルンとその代表は、大革命について大きな役割を果たしたが、彼らは本当に中国の状況を理解していたわけではなかったため、多くの間違った指示を出し、誤った意見を出した。幼年期の中国共産党にとって、コミンテルンの誤った指導から抜け出すことはまだ難しかった。

(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

 

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