中国革命の発展はすべて順調に進んだわけではない。形勢の好転に加えてコミンテルンの誤った指導もあり、中国共産党内の「左」翼急進病がまた次第に勢いを得るようになっていた。
1931年9月18日深夜、不平等条約によって中国東北に駐屯していた日本の関東軍が、世界を揺るがす侵略事件「九・一八」事変を起こし、日本軍は4カ月余りで東北三省を占領した。
しかしながら、臨時中共中央は抗日を主張したものの、正しい認識を持ってこれらの問題に対処することなく、「ソビエト連邦の武装防衛」といった類の中国を危機から救うべき現実からかけ離れたスローガンを発表した。中央革命根拠地では、毛沢東が発表した多くの正しい主張が、「狭隘な経験論」であるなどと非難された。
1932年夏、国民党当局は日本との停戦協定に調印した後、ただちに重装備の軍を組織して第4回の「包囲討伐」を展開した。1933年後半、蒋介石は前後して100万の兵力を各地に差し向け紅軍を攻撃した。そして、9月下旬から50万の軍隊を中央革命根拠地に向けて進攻させ、中国共産党の革命根拠地に対する第5回の大規模な「包囲討伐」を行った
しかし、この時中国共産党の指導者である博古は、過去数度の「包囲討伐」で有効だった積極防衛の方針を放棄した。1934年1月、江西省瑞金で開かれた共産党6期五中総では、強大な敵との兵力差や第5回「包囲討伐」の不利な形勢を顧みることなく、中国革命を「ソビエト中国の完全な勝利を勝ち取る闘争」の段階に進めることを宣言し、「左」翼冒険主義の誤りは頂点に達した。
1934年10月初旬、国民党の軍隊は根拠地の中心部に進軍し、中央紅軍の主力は戦略的移動を余儀なくされた。中共中央機関と中央紅軍8万6000人余りは根拠地を撤退し、西に向かって包囲網を突破する道を歩んだ。こうして中央紅軍は「長征」を開始したが、「左」翼冒険主義の指導者は、今度は退却中の逃走主義という誤りを犯した。戦略的移動を引越し騒ぎのような行動に変え、紅軍と中央機関員を3万人余りにまで激減させてしまった。
1935年1月15日から17日まで、中共中央は貴州省遵義で政治局拡大会議を開き、当時決定的な意義を持っていた軍事面と組織面の問題の解決に全力を注いだ。会議では中央政治局常務委員に毛沢東を加えた。会議後まもなく、毛沢東らによる3人グループを設置、全軍の軍事行動に責任を持たせることとした。遵義会議では、毛沢東の中国共産党と紅軍の中での指導的地位が確立された。
1936年10月、いくつかのルートに分かれた紅軍がついに甘粛で合流し、戦略的な大移動が実現した。このうち、中央紅軍の長征は11省をつらぬき、その行程は約1万2500㌔にも及んだ。「長征」の後に残った紅軍は人数こそ多くなかったものの、中国共産党の極めて貴重な精鋭であり、後の抗日戦争と人民解放戦争を指導する根幹を成した。そして、紅軍は長征の途中で各地に革命の種をまいた。長征中の紅軍が表す不動の共産主義的理想、革命必勝の信念、苦しみに耐えて奮闘する精神と、困難にめげずに勇往邁進し、犠牲を恐れない英雄的気概は、偉大な長征精神を形作り、共産党員と人民の軍隊に前進し続けるよう激励する大きな力となった。ほどなく中華の大地で抗日の烽火が燃え立とうとしている時に、紅軍第1方面軍、紅軍第2方面軍、紅軍第4方面軍が抗日前線に近い陝西・甘粛の地で合流に成功したことの歴史的意義は、計り知れないほど重大なものだった。
(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)
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