トピックス 革命史跡の旅 時代とともに 党員は語る 関連資料 その時 リンク
検索
 
日本籍解放軍が振り返る八路軍への航空理論授業

 

新生中国共産党東北空軍航校は様々な困難に直面していた。中でも最大の難関が、学員達の文化的レベルの低さだった。日本人教員たちは知恵を絞って、様々な奥深い内容を噛み砕きながらのデモンストレーションを通して、それまでは教科書でしか学べなかった航空基礎理論を学員達にマスターさせた。

四則計算に姿を変えた航空理論課程

私が東北空軍航校に飛行教官として赴任した時、空軍航校が牡丹江に移転してすでに3ヶ月が経っていた。当時の空軍航校の状況は、長い間八路軍とともに過ごしてきた教官の私でさえ、驚くような状態だった。一番典型的な例は、林弥一郎(中国名:林保毅)教官の一回目の航空理論の授業を置いて他にないだろう。

その日、林保毅は教室を兼ねた宿舎に入り、椅子や机がないため、リュックの上に座り、自身の膝を机にして座っている多くの学員達をしみじみと眺めた。彼は、この百戦百勝の八路軍戦士達を相手に、軍事課程の中でも最高レベルに位置する航空理論について授業ができることを誇りにさえ感じていた。

まず、彼は試しに黒板に幾何の問題を書き、学員達の反応を見た。彼らの茫然とした様子を見て、一抹の不安を覚えた。次に、物理の問題を書き、拙い中国語で「できる人、答えて。」と言いながら、再びリュックに座る彼らを見渡したが、誰も手を挙げない。そこで今度は、「15×26=?」と書き、もう一度彼らを見渡すと、やはりほとんどの学員が目をぱちくりさせながら彼を見ている。ここにきてようやく彼は、共産党が世界で最も完了が難しい教学任務を自身に与えたのだと気付いた。彼は少し考えてから、手にしていた教案を投げ出し、大声でこう言った。「では、あなたたちの、さきに四則計算を学ぶ!」

こうして、本来大学生レベルの航空理論授業は、小学生レベルの算数の授業に変わってしまった。

口論の末の「実物教学法」

学員の文化レベルの低さをどうするか。この問題をめぐって、航校内には対立が生まれた。日本人教員等の正規訓練を受けた者たちは、まずは基礎的学力をつけ理論を学ぶという順序だった方法を主張。一方、八路軍出身の指導者や学員達は理論的な事は後回しにして、直接飛行機の操作や修理の技能について学び、その後でゆっくり理論的内容を補充していく方法を主張した。

この対立は、教員レベルにとどまらず、一部落ち着きのない学員も加わって航校の指導者に対し直接、勉強をやめて、前線で戦いたい等と言いだしたため、状況はさらに緊迫したものとなっていった。航校の常乾坤校長と王弼政治委員も、1日3回は口論、3日に1回は大口論となり、顔や耳まで真っ赤にしながら机をたたき、椅子を投げつけるほどとなった。その口論は激しさを増し、ついには周りに配慮した二人がロシア語で言い争うようになり、当時の航校の一大「おなじみ演目」となった。

しかし、不思議なことに、全校至る所で、みんなが繰り返し口論をしていくと、だんだんその問題点が明確になり、互いの考え方もどんどん近づいて行った。その結果、最終的には実践実学を重視した方法を採用することで双方一致した。そこで、航校の指導者は次の指示を出した。「直ちに実践実学主義の授業を試行、状況を見ながら進め、総括しながら改善を行っていくこと。」

我々日本人は、本件を通して、身をもって中国共産党の民主集中制を体験した。

日増しに効果を上げた教学法

この方法が功を奏した。この日、日本人教員の塚本好司は教室に入り、気化器の実物を教壇に置いた。そして、黒板には丁寧にその図を立てかけた。1ヶ月以上見てもよく分からなかったその図を見て難しい表情になる学員達に対し、彼は少し得意げにこう言った。「大丈夫、私が理解させますから。」

学員達の少しほっとした様子を見て、塚本教員はまるで手品でも始めるかのように、準備してあった煙草に火をつけて大きく吸い込み、ゆっくりと身をかがめ、口いっぱいの煙を気化器の穴の中に吹き込んだ。その瞬間、濃い煙が気化器でただ一つ塞がれていない穴の中から出てきた。学員達のくもった表情は一気に晴れやかになり、とび跳ねながらこう言った。「分かった、分かった!油路の構造が分かったぞ!」

学員達と同じく興奮した塚本教員も、日本人教員特有のつつましさや厳粛さを忘れ、笑顔で学員達と抱き合い、煙吹き合戦を始めた。

まさに「水増せば船高し」で、実物教学を通して、選りすぐりのエリート学員達は、天へと通じる階段とも言うべきコツをつかみ、その目と耳で感覚を養い、説明を聞いて理解し、すぐに覚えられるようになった。教員たちもまたその実物教学の中でだんだんと教え方のコツをつかみ、効果的な授業を展開できるようになっていった。こうして、もともとは「教えても無駄」な状態でやる気をなくしていた日本人教員たちもだんだんとやる気を取り戻していったのである。

その教学効果は絶大なものだった。教えるほどにやる気がわき起こり、我々日本人教員はどうしたことか、「興奮剤」でも服用したかのように日夜を問わず教学に没頭した。午前中は授業、午後は実習と訓練指導、夜は教材の翻訳や授業の準備、教案作成…教員宿舎の明かりはいつも夜遅くまで灯り続け、時には次の日まで消えないこともあった。

(朱新春作『樱花啊,樱花(さくらよ、さくら)』人民出版社2010年7月第一版より抜粋)

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」  2011年4月7日

 

 

 
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850