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紅軍の運命変えた遵義会議の会場跡

 

婁山関

作成・金田直次郎

会議は1935年1月15日から17日まで、3日間にわたって続いた。

毛沢東は革命に対するせっかち病と定見のない場当たりな戦術――「左」翼日和見主義の誤りを改め、遠い見通しに立った戦略と「彼を知り、己を知った」うえで、決して負け戦はしないという戦術を提起した。

会議は、長征の行路を北にとり、敵の備えの弱い西北地区を目指すこと、秦邦憲とブラウンに代わり朱徳と周恩来が軍事上の指揮を執ること、毛沢東を中央政治局常務委員に加えることを決めて閉会、紅軍は北に進路をとって再び長征の途に就いた。

会議には、紅軍代表として総司令部と各軍団の主要な責任者も参加していた。劉伯承、聶栄臻、彭徳懐、楊尚昆……、いずれ劣らぬ歴戦の勇士たちだ。

毛沢東の中国の実情に根ざし、実践から教訓を汲み取って堅忍不抜の地歩を固めるという軍事思想が、この会議以後、紅軍の将兵に広く深く浸透することになる。紅軍の指揮権が毛沢東にゆだねられるきっかけとなったのが、遵義会議だったのだ。

巧みな運動戦を展開した毛沢東

前線に立った毛沢東は、迫る敵軍を迎えて、巧みな運動戦を展開した。有名な激戦地が婁山関だ。

私たちは遵義から車で婁山関に向かった。婁山関は貴陽から遵義を経て重慶に向かう幹線道路の要衝に当たり、古来、兵家必争の地とされてきた。「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」と形容される。

北と南から迫る敵軍をかわすため、紅軍は貴州省と四川省の境を流れる赤水河を2度渡り、貴州側に戻った1935年2月25日、婁山関を守る敵軍に総攻撃をかけた。勝利は、山々の頂をどちらが先に制するかにかかっていた。「高地を奪取せよ」との毛沢東の命を奉じて、彭徳懐率いる紅軍部隊が果敢な攻撃を展開、「高地」を占拠した。数と装備に勝る敵軍が峠に迫ると、紅軍は迂回戦術を用いて、正面から迎え撃つと同時に左右から伏兵を繰り出し、白兵戦を繰り広げて、逃げる敵を追撃、3個連隊を殲滅・潰走させた。

私たちは山下にある「紅軍婁山関戦闘陳列室」で当時の資料や一帯の地形模型を見た後、激戦地となった小尖山に登った。急斜面にはコウヨウザンが植樹されており、葉末から雨のしずくが滴り落ちる山道を登り切ると、左右に眺望が開け、山頂からは幹線道路を四方から挟み込むようにして大小の山々が迫る壮大な景観が眺められる。

道路沿いには毛沢東の自作自筆の詩『憶秦娥 婁山関』が彫られた巨大な詩碑があった。

西風 烈し
長空に雁叫き 晨月に霜ふる
晨月に霜ふれば
馬蹄の声砕け
喇叭の声咽ぶ
雄関 道うなかれ 真に鉄の如しと
今 邁歩して頭より越ゆ
頭より越ゆれば
蒼山 海のごとく
残陽 血のごとし

婁山関攻略戦を詠ったもので、冬さなかに行軍する辛苦と、その辛苦をものともせずに天下の険を攻め落とした紅軍の戦いぶりを振り返る。晴れた日には海の波のように連なる山々が小尖山の山頂からも見晴らせるという。

 

 

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