文=「光明日報」東京駐在記者・厳聖禾
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周恩来(後の右から1人目)が日本で留学した時、クラスメートとの記念写真 |
1917年9月、抜群の成績で天津南開中学を卒業したばかりの周恩来は、求学報国という壮大な理想を抱きながら、日本行きの汽船に乗り込んだ。しかし、わずか19歳の周恩来にとって、日本での学問探求の道は決して平坦ではなかった。「光明日報」が伝えた。
時の中国は、軍閥が混戦する暗黒の時代にあり、帝国主義列強とくに日本に陵辱されていたことで、熱血の周恩来は心を静めて学ぶことはできなかった。日本の大学には合格はしなかったものの、日本に1年余りとどまった経験はむしろ周恩来が社会主義思想に接し、革命に身を投じる志を立てる重要な契機となった。
日本の小学館出版の「周恩来―19歳の東京日記」を開いてみると、青年時代の周恩来が東京で暮らしていたときに体験した生活の窮迫、孤独な思い、思想上の苦悶が伝わってくる。周恩来は東京に着くと、神田区中猿樂町七番地にあった「東アジア高等予備学校」に入り、学んだ。20歳にならない青年が肉親と遠く離れ、異国の地で孤独を感じるのは想像できる。家庭が貧しいうえに政府の奨学金もなかったことから、常に生活を心配し、東京の住まいも引っ越してはまた引っ越しだった。そうしたなか、周恩来をより悩み苦しませたのは、当時の中国が混乱の時代にあり、理想にあふれてはいても、国恩に報いるに門はないと感じたことだ。
1918年1月23日、周恩来は日記のなかでこう記している。きょうの朝、新聞で昨日の日本の国会の状況を知って非常に感慨を覚えた。現在、わが国にはまだ国会はなく、将来、新しい国会であれ、古い国会であれ、いずれも能力はない。人びとの水準、常識はいつもこのようであり、どうしたら優れた国会を持つことができるのだろうか。役人のなかで何人が本当に国家を第一に考えているのだろう、思えば本当にとてつもなく恐ろしい。夜、再び梁任公の文集を手にして眺めた。「十年以後当思我、挙国如狂欲語誰。世界無窮願無尽、海天寥廓立多時(10年後に自分を思うと、国を挙げて狂ったごとく誰かを語ろうと欲している。世界は尽きることなく願いは無限であり、海と天は広々として佇むことどれほどか)」。いくつかの詩句を読んで、涙が出そうになった。突然また、任公がこの詩をつくったときのことを思い、27か28歳にすぎず、自分はすでに馬齢重ねて19歳になりながら、何事も成しとげておらず、学問はまだ入り口にも至っておらず、あろうことか本当に先輩に恥ずかしい。
2月11日は中国の旧暦の一日。前日の日記のなかで、「身は他郷にあり、佳節を迎えいつにもまして身内が偲ばれる」と書いた周恩来は、決して郷愁に浸っているのでなく、「考えるとすれば、すぐにいま最も新しい思想について考える、やるとすれば、すぐにいま最も新しい事をやる、学ぶとすれば、すぐにいま最も新しい学問を学ぶ」との志を立てていた。
「周恩来―19歳の東京日記」の編者である日本の学者、矢吹晋氏は書のなかでこう分析している。「周恩来が日本に留学していてころはちょうどロシア10月革命の後、中国の五四運動の前の激しく変動していた時代だった。青年周恩来は学業では余り順調ではなかったものの、むしろ国内外の先進的思想に接触するようになった。周恩来は日本に行った後に雑誌『新青年』を読み始めるようになり、じきに新文化運動と文学革命理論に傾倒していった。留学の初期は日本語の水準にある程度の限界があったので、ほとんど毎日のように中華青年会館あるいは東亜学校に入り浸って、中国の新聞や雑誌を読んでいた。1918年上半期以降、マルクス・レーニン主義に関心を寄せ、京都大学教授の河上肇の「貧乏物語」や高徳秋水の「社会主義の真髄」など、日本早期のマルクス主義を宣伝する著作を読むようになり、後に、河上肇がマルクス主義を広めるための月2回発行の刊行物「社会問題の研究」の熱心な読者となった。
東京で暮らしている間、周恩来は北洋軍閥政府が日本と主権を喪失する国辱的な条約に調印したことに抗議して逮捕された事件を聞き、その後、愛国留学生の団体「新中学会」に参加するとともに、帰国して革命を発動するという思いが次第に芽生えていった。1919年、「ベルサイユ条約」の調印が最終的に、日本での学業を放棄し祖国に戻るよう周恩来に促したのである。天津に着くと、すぐさま勢いすさまじい五四運動に身を投じ、ここから革命の道を歩み出した。帰国する1カ月前の4月5日、周恩来は京都郊外の嵐山に遊び、有名な「雨中嵐山」を詠んだ。その最後の2句は、周恩来がすでに光明、つまりマルクス・レーニン思想を探しあてたことを示している。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年6月27日
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