当代世界研究センター副主任、文学博士 孔根紅=文
中国共産党の90年にわたる発展の歴史は、党の対外交流における困難で波乱に満ちた過程をも記録している。中国の革命、建設、改革の全過程において、対外交流関係をより良く運用し、積極的に発展させることは、党の事業が絶えず成功を収めるための基本的な要素の一つであることを経験は教えている。
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波乱に満ちた交流史 |
中国共産党の誕生から中華人民共和国成立までの28年間に、毛沢東、周恩来、劉少奇らの党中央指導者は、延安、武漢、重慶、南京、西柏坡などの各地で、党の対外連絡と対外交流を十分に運用し、相次いでコミンテルンの代表、ソ連共産党の代表、国際友人および各国の進歩的な人士と会見し、中国共産党の方針と政策を宣伝して、中国共産党と中国革命の影響力を強めるために尽力した。
1941年10月、中国共産党は延安に18の国の130余名の代表を集め、東方各民族による反ファシズム大会を開催し、選挙によって東方各民族反ファシズム同盟のメンバーを選出した。こうして延安は東方での反ファシズム闘争の中心地になった。
ノーマン・ベチューン(カナダの医師)、ジーン・イーウェン(カナダの女性看護士)、ドワルカナート・コトニス(インドの医師)、ハンス・シッピー(ドイツの記者)、ヤコブ・ローゼンフェルド(オーストリアの医師)らの国際主義戦士は、遠路はるばる中国の解放区へやって来て、中国人民の解放事業のために、重要な貢献をした。
新中国成立後、中国共産党は執政党になった。新中国成立の初期、党の対外活動は社会主義新中国が国際社会で認められるうえで、また新生政権を強化し有利な国際環境を創出するうえで、きわめて重要な役割を果たした。
新中国成立の翌日(1949年10月2日)、ソ連は先頭に立って国民党政府と断交し、中華人民共和国と外交関係を結ぶ旨の宣言を行った。時を移さず、ブルガリア、ルーマニアが相次いで新中国と外交関係を結んだ。1950年1月までに、チェコスロバキア、ポーランド、モンゴル、ドイツ民主共和国、アルバニア、ベトナムなど東欧、アジアの十数の人民民主共和国や社会主義国が相次いで中国と外交関係を結んだ。
1956年に開催された中国共産党の第8回全国代表大会は中国共産党が執政党になって初めて開催した全国代表大会で、国際社会の大きな関心を呼び起こした。中国共産党と交流関係を築いていた各国の共産党、労働者党のうち、56の党が代表団を派遣し、同大会に臨んだ。毛沢東主席は大会の席上、次のように語った。「われわれは共通の言葉を有しており、孤立しているとの感じは少しもない。彼ら(各国の共産党・労働者党代表)は遠い道のりを経てわが国にやって来、崇高な友誼を携えて、わが党の今回の代表大会に参加した。これはわれわれにとって、大きな励ましであり支持である」
1950年代の末までに、中国共産党は世界中の80を超す共産党や労働者党との間にさまざまな形による交流と連絡の関係を築いた。1959年、中華人民共和国成立10周年を記念する式典と活動には、61の国の共産党と労働者党の代表団や代表が参加した。
1978年12月、中国共産党は第11期中央委員会第3回全体会議を開き、新中国成立以来、党の歴史上きわめて深い意義を持つ偉大な転換を実現し、党の対外活動は新しい調整、展開、発展と変革を図る歴史上の新時期を迎えた。それは次の三つの重要な発展段階として具体的に実現された。
第1の発展段階は1970年代末から80年代末までで、鄧小平氏をはじめとする党の第2代中央指導陣は国際情勢と時代の特徴を科学的に判断し、根本から党の外交戦略を調整して、党の対外活動の新局面を打開した。
第2の発展段階は1980年代末から21世紀初頭までで、江沢民氏をはじめとする第3代中央指導陣は鄧小平理論の偉大な旗印を高く掲げ、「三つの代表」(中国共産党は終始、中国の先進的な社会生産力の発展の要請、中国の先進的な文化の前進の方向、中国の最も広範な人民の根本的利益という三つを代表する)思想を提唱し、政党外交の内容を充実して、党の対外活動に新しくかつ重要な成果をもたらした。
第3の発展段階は党の第16回全国代表大会以降、今日までで、胡錦濤氏を総書記とする党中央は鄧小平理論と「三つの代表」思想のもとで、科学的発展観と「調和の取れた世界」理念を提唱し、平和、発展、協力の旗印を高く掲げて、政党外交の新境地を切り開き、党の対外活動はよりいっそう重要な進展を遂げた。
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