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毛沢東思想が確立 革命の聖地 延安

金田直次郎=文 沈暁寧=文・写真

2011年7月1日。

中国共産党成立90周年記念日のこの日、延安に入った私たちは、朝から市内を見て回った。街角には花壇が設けられ、市の中心にあたる「延河大橋広場」には催事用の舞台がつくられて、その華やかな飾り付けが、祝日の雰囲気をいやがうえにも盛りたてていた。  

市内の革命史跡はどこも団体客が引きも切らず、延安革命記念館には参観する人の列が続いた。

市内の各劇場では延安の革命の歴史をテーマにしたミュージカルや陝北(陝西省北部)の民謡を歌う催しが開かれ、「延安大礼堂」では400人が出演する大型歌舞劇『延安頌』のステージが繰り広げられるなど、この日一日、延安の街は祝賀ムード一色に染まった。  

今年一月から六月までの半年間に延安を訪れた内外の観光客は1000万人を超え、昨年の三倍に。

私たちはこれほどまでに人々を引き付ける革命の聖地の魅力は何なのかを探った

王家坪にある延安革命記念館。多くの貴重な文物と史料が保存・展示されている。記念館前広場に建つ銅像は延安時代の毛沢東

大型歌舞劇『延安頌』のオープニングは地元の民謡歌手、孫志寛さんが歌う『山丹丹花開紅艶艶』(イトハユリの花咲き、野は赤く色鮮やか)だった。陝北の民謡「信天遊」の伸びやかな調べに乗せて朗々と歌われた。

連なる山々

川また川

われらの紅軍が

陝北にやって来た

紅の旗ひるがえり

兵士の肩には銃

われらの隊伍は意気盛ん

家々こぞって門をあけ

親しい人を呼び入れる

オンドルにすわり

心ゆくまで語り合う

空の黒雲は風に吹き飛ばされ

毛主席がやって来た

晴れわたる空

イトハユリの花咲き、野は色鮮やか

毛主席はわれらを率い

政権を戦い取る

■ゴールにしてスタート地点

約2万5000華里(1万2500㌔)の長征を終え、中央紅軍(第一方面軍)が陝北の呉起鎮に到着したのは1935年10月のこと。残りの部隊も翌36年10月までには合流した。

宝塔山と南川河に架かる宝塔橋。宝塔山は延安のシンボルであり、また中国革命の行く手を指し示した里程標とも呼ばれている

当初八、九万を数えた兵力は二、三万に激減したものの、「北上抗日」の新たな使命を果たした長征の帰着点・陝北を毛沢東は「長征のゴールであり、また抗日戦争のスタート地点でもある」と総括した。

「われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。12カ月のあいだ、空ではまいにち何十機という飛行機が偵察と爆撃をおこない、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃し、阻止し、遮断し、途上ではことばでいいつくせない困難と険害に出あったにもかかわらず、われわれはめいめいの二本の足を動かして二万余華里を踏破し、11の省を縦横断した」(『日本帝国主義に反対する戦術について』)と毛沢東は語り、長征は「宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機である」と強調、11の省にまいた種は「芽をだし、葉をのばし、花をさかせ、実をむすび、やがては収穫されることになる」と革命の希望を中国人民に託した。

以来、陝北を後にするまでの13年間、党中央(中国共産党中央委員会)は延安に置かれた。1936年12月に起こった西安事変をきっかけに成立した第二次国共合作を踏まえ、労農紅軍は八路軍、新四軍に改組され、抗日戦争の前線に出撃する。延安は全民族抗日の拠点に、また抗日戦勝利後は解放戦争指導の中心地になった。

棗園の毛沢東はじめ5人の革命指導者像前の広場で党員宣誓式を行う陝西省楡林市税務局の党支部グループ。中国共産党成立90周年記念日の7月1日、延安の各革命史跡ではこうした記念の活動が行われた

指導者の住まい、党・軍の諸機関、「中央大礼堂」や「陝甘寧辺区参議会礼堂」(延安大礼堂)、中央党学校、抗日軍政大学、魯迅芸術文学院など数々の史跡が大切に保存されている。あるいは窰洞(横穴式住居)として、あるいはレンガ造りの簡素な建物として残る史跡群は、今も延安の13年間がどのようなものであったのかを語りかけている。

 

 

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