島影均=文
四川汶川大地震3周年の5月12日から数日後、被災各地を訪れる機会に恵まれた。
甚大な人的、経済的な被害を受けた北川県は街ごと地震遺跡として保存されている。バスの車窓から見えていたなだらかな緑の山々に黄色の悪魔の爪痕が見え始めた。バスを降りると動悸が早くなるのを感じた。正面に中間でぽっきり折れた橋が目に入る。遺跡に入ると、全壊、半壊したビルが見学のために再整備された道路の両側に続く。
授業中の教師、生徒が多数亡くなった中学校はがれきの山と化していた。唯一残った国旗掲揚塔を見上げる位置に献花台が設けられていた。地震遺跡は犠牲者といまだに行方不明の人々の墓地でもあるのだ。菊の花を一本手向け、ご冥福を祈った。黙祷を捧げながら、3月11日に発生した未曾有の津波を伴った東日本大震災の犠牲者の皆様にも哀悼の気持ちを込めた。また、「ひとごととは思えない」と感じていただいた中国の官民、取り分けメディア、インターネットを通じて「日本、がんばれ!」の声援を送っていただいた多くの中国の皆様に対する感謝の気持ちが再び沸き起こってきた。
問答無用の自然災害はあらゆる人類の営為をいとも簡単に破壊してしまう。そうした弱さを確認し、共有した上で、「雪中送炭」——困った時はお互い様という共助の気持ちには、計り知れない人類愛が脈々と流れていることを実感させられた。
ごく普通の日常生活が営まれていたチャン族の住宅街を歩いた。一階が押しつぶされ、ゆがんで半ば崩れたアパートから悲しみがにじみ出る。1995年、阪神・淡路大震災の1カ月後、北海道新聞論説委員として現地に足を踏み入れた時の記憶が蘇った。地震発生後、新聞やテレビで情報として被害状況を理解していたつもりだったが、神戸市三宮から徒歩で被災地に入ると、自然の圧倒的な威力に足がすくんだ。自分の五感を総動員して脳裏に焼き付けられた印象は強烈だった。震災に遭わなかった私でさえ、無力感をひしひしと感じさせられた。
今回、北川県、德陽市、綿竹市漢旺鎮など各地の地震遺跡を見て、家族、知人友人を失いながらも、生き延びた人々は心の問題にどのように向き合っているのだろうか、また、公的機関の対策はどうだろうかという疑問が頭をもたげた。新興鎮寿陽泉の再建された農村に住む主婦・趙梅梅さん(61)は「地震が来たのは農作業の合間の昼寝の時でした。生まれて初めてのことで何が起きたかさっぱり分かりませんでしたが、外に飛び出しました」と、当時を振り返り、「今でも、たまにですが、地震だ、と夜中に目が覚めることがありますよ」と、語ってくれた。新しい住宅に大いに満足しているという趙さんの表情は明るかったが、軽度のトラウマ(精神的外傷)が残っていることは間違いないようだ。
「地震後、心のケアを最も重視してきましたよ」と、郭山鷹・汶川県党委員会宣伝部副部長は同県被災民の心理的な側面の立ち直りを支援してきたことを強調し、「震災後3年の間に、そうした理由で自殺に追い込まれた人は県内に一人もいません」と、胸を張った。
また、北川県チャン族自治県心理衛生センターの康力氏は震災後の心理的な健康障害について次のように説明してくれた。①ストレス②不眠③自律神経失調④抑うつが代表的な症状で、年齢、家庭環境などさまざまな条件によって軽重の差があり、「きわめて個人差が大きいため、心理学専門家、医師、政府機関の職員がチームを組んで定期的に観察を続けなければなりません」と、説明してくれた。
阪神・淡路大震災後、仮設住宅生活が長期化するにつれ、被災民の心理的な負担軽減が大きな社会問題になった。東日本大震災はさらに原子力発電所事故の不安が加わり、被災民に心理的な重圧を与えている。今後、復興が本格化するにつれ、個人差がきわめて大きい心理的なダメージをどのように軽減していくか。モノの建て直しとは違い、壊れやすいココロの復興は政策的にも重視されなければならず、地域社会の互助精神も不可欠だろう。
そうした意味で、四川汶川大地震の被災地は都市化が緒についたばかりの地域で、農村地域の濃い人間関係が役立っているようだ。中日両国の事情に詳しい北京在住のある中国人精神科医は「都市化が進めば進むほど人間関係が希薄になります。四川地震後の心理的なケアが順調といえるのは被災地が農村地域だったからだと言えるでしょう。しかし、今後、北京、上海といった大都会で大自然災害が発生しないとは限りません。四川地震後の被災民の心理面のトレースは貴重です」と、語っていた。
心理的な復元を助けるのは、衣食住の充足、特に住宅の整備と雇用機会の創出が重要で、復興事業の中で住宅建設に力点を置いたのは道理にかなっている。さらに震災によって離農せざるを得なかった人々に対する、新しい仕事づくりも欠かせない。その意味で、国際住環境フォーラムが汶川県水磨鎮に「ベスト災害後復興賞」を贈ったのは大きな意味があろう。農工業主体だった産業構造を観光事業主体に切り替え、被災民に新たな生きがいを提供しようという試みであり、東日本大震災後の東北地方復興の参考例として注目される。
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