ゆき届いた新北川県城

 

チャイナ・ネット社 コリー・クーパー(米国)=文

取材団が最初に訪問した大地震被災地の旧北川県城は四方を山で囲まれた谷底にあり、巨大な破壊力によって、山が裂かれ、土石流が一挙に県城を埋め尽くしてしまった。われわれは廃墟の中で北川賓館を参観した。この四つ星のホテルは震災で倒壊を免れた数少ないビルのひとつで、千人を超える被災民の避難所の役割を果たした。

移転して新しい土地に再建された新北川県城(写真提供・四川省党委員会宣伝部)

旧県城のバスセンタービルはがれきの山になっていた。ビルが全壊し、4人が犠牲になった。県農業発展銀行ビルは骨組みだけが残ったが、同県党委員会はここで会議を開き、救援計画を決めた。

旧北川県城は地震記念館として整備され、また犠牲者に哀悼の意を捧げる場所になっていた。案内の担当者によると、震災を生き延びた人の来訪は少ないそうだ。苦痛の記憶をたどりたくないからだろう。ただ、「3周年の当日は家族や友人知人の慰霊のために来ていました」と、付け加えた。

ガイドは地震発生時の建築物の位置と構造が重要だ、と説明していた。例として、2棟のビルを示しながら、それぞれ道路の両側に建っていたが、1棟は完全に崩壊し、がれきとなり、向かい側のビルは被害が少なく、今でも残っている、と説明した。

新北川県城の建設に当たって、この教訓を十分に生かした。新県城は地理的条件がよく、周辺に地滑りが起きやすい高山はなく、旧県城のように壊滅的な打撃を被ることはなく、都市計画上、災害対策が講じやすいそうだ。ガイドはM8の地震でもしのげる、と説明していた。

取材団は北川中学の崩壊跡地で犠牲になった教師、生徒への黙祷を捧げた。谷あいに建っていた中学校の廃墟を見ていると、地震が起きる前に校庭で、楽しそうに遊びまわる子どもたちの情景が脳裏に浮かんできた。あの時、校舎の裏山が崩れ、巨大な岩石が校庭に飛び込んできたのだろう。校庭には地震前の面影は残っておらず、廃墟の上に中国国旗がはためき、一組の夫婦ががれきの上に黒い横長の布を掛けていた。亡くなった子どもを偲んでいるのだろう。

北川県は山東省の「一対一支援」で復興事業が進められ、チャン族風致地区の再建も同省の支援で行われ、チャン族が震災に直面して示した偉大な精神を記念している。

この地区のシンボルは高い四角の塔で周囲を長方形の建物が取り巻くチャン族独特の建築様式だ。多くの北川住民がこの地区の博物館、飲食店で働き、中には道端でお土産を売っている人もいる。案内の担当者によると、70世帯の住民がこの風致地区の収入で生活しているそうだ。

この2年の再建の間に、北川県に大きな変化が起きた。県城は広々として安全で、道路も幅員が広く平坦に改修された。城内は四区に分けられ、住宅地区、養老院、病院のほかに、商業街があり、小中高の教育施設が整備された地区もある。

 

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