忘れないために

 

島影均 沈暁寧=文

人類史に残る巨大な地震との戦いを後世に伝えるために、中国では四川汶川大地震の生々しい爪痕を何カ所か残そうとしている。街全体をそのまま残しているケースや一部の廃墟を保存し、周辺を公園にしているところもあり、態様はさまざまだが、国土の狭い日本はもとより世界的に見ても、「現代の地震遺跡」は珍しい。

保存されている白鹿鎮中学校の校舎。3年前の惨事の瞬間を生徒の群像で再現している(写真・王衆一)

悲劇と衝撃を無言のうちに物語る無残な廃墟は、後世の人々に先人の地震との戦いを伝え、また全人類の大自然に対する畏敬を忘れてはならないという戒めになるだろう。

3年前にタイムスリップ

谷あいにある旧北川県城は震災の遺跡として、街全体が保存されている。

震災犠牲者の霊に献花する外文局取材団。左から5人目は周明偉局長、6人目は陸彩栄副局長(写真・陳建)
祖先を祭る伝統的な祭日・清明節の直前、本誌の取材班が慰霊のため特別開放された旧県城に入った。一歩一歩、廃墟の中を歩くうちに、時の流れを遡るような錯覚を覚えた。目に入る倒壊した家屋や壊れたビル、傾いた壁が増えるにつれ、「あの時」に近づいたように感じた。3年の歳月を忘れさせるように、ここのすべてが当時の様子をはっきりと伝えていた。

ベランダに干されていた服は灰まみれになり、風に揺らいでいた。窓辺に置かれた盆栽は、かつて満開だったに違いないが枯れてしまっていた。レストランの看板はまだ読み取れたが、店内は、テーブルやイス、カウンターがめちゃくちゃに散乱し、ばらばらに倒れ、半壊状態だった。鳥が飛んでいなかっただけでなく、生き物の気配をまるで感じられなかった。ただ、屋上に無秩序に生えていた雑草と数本の樹木のわずかな新緑が、春の息吹きを誇示していた。

午後の日差しは暖かかったが、旧県城のひっそりとして重苦しい雰囲気に、息が詰まった。2、3人とすれ違ったが、だれも無言だった。規定で、旧北川県の住民だけが、旧県城に入り、震災で亡くなった家族や親戚の霊を弔うことができた。あまり遠くないところから、時折り、爆竹の音が聞こえ、どこかで遺族が弔いをしていることが分かった。危険地域を示す鉄条網や廃墟のがれきの上には、黄色や白の菊が手向けられていた。コンクリート製の焼香台の前で、人々は線香を焚き、ろうそくに火を付け、紙銭を燃やし、杯に酒を注ぎ、菓子や果物を並べ霊を慰めていた。

その中のひとり、30代の女性の張さんは、弟妹を伴い、ある倒壊したアパートに向かって、静かに祈っていた。彼女の話によると、両親がここで地震に遭い、亡くなったので、毎年、ここに来て慰霊の祈りをしているそうだ。その日は、残された家族はみんな無事で、まもなく新県城に引っ越すので、安心してくださいと両親に伝えたいという。

見渡す限り震災の傷跡が目に入る旧県城はずっと存在していくだろう。城内の倒壊危険家屋は、すべて頑丈な鉄骨の支柱で支えられ、中国語だけでなく英語、日本語、韓国語などで震災の被害を説明する看板が立てられていた。

倒壊免れた校舎も保存

彭州市白鹿鎮には倒壊を免れた9年制学校の校舎が残されている。山の斜面に平行に建てられた2棟の校舎は窓ガラスは全部割れ、壁にひび割れが入っているが、かろうじてほぼ垂直に立っている。説明によると、山側の校舎は3メートルもせり上がったそうだ。教師、生徒に犠牲者は出たが、大多数は校舎から逃げ出すことができたという。もし、校舎が全壊していたら…… と想像すると背筋がざわっとした。

谷川の校舎の前には、校舎から逃げる生徒たちの数十の群像が設置されていた。走っている姿勢の生徒たちの表情には恐怖心がにじみ出ている。

また、什邡穿心店地震遺跡公園は半壊したレンガ造りの建物を残し、その後方に広々とした公園を造成している。地震の経験を読んだ詩が壁画風に刻まれ、慰霊塔がそびえる広場には廃墟を象徴する大きな鉄骨のモチーフが設置されていた。

 

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