新しい街 北川、水磨鎮、白鹿鎮、成都

 

島影均 沈暁寧 王衆一=文

四川省北部の山地に位置する北川県の県城は、1400年余の歴史を持つ。治水の王・禹の故郷と言われる。漢族、チャン(羌)族の住民が代々生活し、貴重な歴史的、文化的な財産は、あの日突如、跡形もなく破壊されてしまった。震災後、地質学専門家は北川県は居住に適していないという判断を示した。しかし、政府も住民も北川を地図から消滅させる考えはなかった。そこで「新たな北川県」が計画され、新しい街が建設された。

新北川県城は唯一の移転再建であり、国家指導者はじめ各界の関心を呼んでいる。旧北川県城の人口は3万5000人だったが、新県城は計画段階で7万人と想定し、5年以内に5万人を超える見込みだ。また、新県城の人口構成は旧県城とは大きく変わる。旧住民のほかに周辺農民の転入を促進し、また、経済の活性化、産業のレベルアップをはかるために、他都市からの転入者の比率を高め、一流の都市の建設を目指している。全く新しい都市に生まれ変わる新県城の管理体制について、韓貴均北川チャン族自治県宣伝部長は次のように説明した。「農民が一晩のうちに市民に変わるわけですから、彼らの資質を高め、新しい技能を身に付けてもらうことが主要な課題です。固有の習慣と都市管理のギャップを埋めるために、少しずつ指導し、適応してもらわなければなりません。都市管理局を新設し、全国からエキスパートを集めたいと思います」

あふれるチャン族文化

取材班の車が新北川鎮に入ると、真新しい住宅街が目に飛び込んできた。6階建のアパートの外観はみな同じだ。灰色の外壁は四隅を褐色の木柱で縁取りされ、屋根は褐色の板で葺かれ、窓枠も褐色で統一され、鮮やかなコントラストに目を奪われた。車の窓から見える街路灯、交通標識、道路案内、ゴミ箱も褐色の木材風に塗装されていた。住宅地や商店街の入り口には羊の頭蓋骨の模型が飾られたアーチがある。ここがチャン族の文化が色濃く伝わる鎮だということを象徴している。 「一対一支援」制度の成果

新県城の建設予定地は7平方キロで7万人の居住が可能だ。建設総投資額は110億元で既に95%以上が完成している。このうち、「一対一支援」制度で、新北川を受け持つ山東省は46億元を負担する。2009年に着工してから、3万人余の建設労働者が山東省から入り、わずか一年で、3600棟の中低所得者向けの住宅、63本の道路、4本の橋を竣工させた。新北川の建設に伴って、山東省は1.4平方キロの北川・山東工業パークと農業・産業モデルパーク展示園の造成を計画している。また、同省の企業は総額16億元を新北川の電子情報事業、新型建築資材、機械製造、食品・薬品加工などの各分野に投資する考えで、「一対一支援」から「一対一提携」へ、長期的に協力していく方針だ。

被災者を思いやり離農

付増友(59)さんは、四川省安県黄土鎮で先祖代々引き継いできた農業に従事していた。2000平方メートルの土地に水稲やショウガ、スイカを植え、これらの農産物によって、毎年1万元の収入を得ることができた。家族4人の中で、彼と奥さんは耕作に従事し、長女は安県の電信会社に勤め、次女は江蘇省の紡績工場でアルバイトをしていた。あまり豊かではないが、安定した楽しい生活を送っていた。

付さん一家は幸いに震災に遭わず、たいした被害もなかった。しかし、彼の生活にも天地を覆したような変化が起きた。「新北川建設のための土地収用の対象とされました」と付さん。気がかりと名残は尽きなかったが、帰るべき家もない北川の多くの被災者を見ているうちに、とうとう周りの村人と一緒に離農して、郷里を立ち退くことを決意した。 補償金はもらったが…

立ち退き補償の基準に基づいて、付さんは鎮政府から約20万元の補償金を支給され、奥さんと一緒に近くの安昌鎮で借家暮らし始めた。「毎年、家賃だけで1万元かかり、ほかに収入は無かったので、このままでは絶対だめだと思いました」と、当時を振り返って話してくれた。2009年2月、友人に薦められ、付さんは北川県プロジェクト建設指揮部の門衛となった。まじめで正直な人柄と、電気回路の補修技術のおかげで、物品の仕入れと回路補修の仕事も兼ね、月給は1300元に上がった。

2010年1月、新北川鎮に中低所得者向けの住宅の一部が完成した。立ち退き世帯の付さんは、無償で140平方メートルのアパートを手に入れることができた。寝室は5室、トイレ2カ所、キッチンのほかに、30平方メートルほどの客間もある。広いベランダから、かなたの山を眺めながら、付さんは「農民にはもう戻れないという現実には、確かになじめません。しかし、後悔はしていませんよ」と、微笑んだ。付さんのような「里帰り入居者」が他にも大勢いる。

3年間で「新たな天府」

四川省は物産の豊かさや気候の心地よさから、古くから「天府の国」と称えられている。省都・成都市の歴史は古く、文化的な深みのある街で、おいしい食べ物、美しい風景、快適な生活環境は人々を惹きつけてきた。しかし、大地震に見舞われ、市内で4307人が死亡、282万人が被災し、管轄下の都江堰市にある千年以上の歴史を持つ二王廟などの古跡も破壊された。

復興事業で、成都市政府は単なる原状回復ではなく、長期的な視野に立ち、「市民が満足でき、改革によって新機軸を打ち出す」という基本方針に基づいて、科学的で周到な計画を立て、実行に移した。3年かけて、復興事業はほぼ完成した。

都市部と同じサービス

成都市管轄の彭州市磁峰鎮鹿坪村の「鹿鳴荷畔」は住宅復興プロジェクトのモデルとして最初に建設された。農家の庭はそれぞれまちまちで趣があるが、インフラや生活施設はどの家も完備されている。観賞用のハス池のほとりに、農村風の旅館が軒を連ねている。生産基地では、食用キノコ、漢方薬の材料、キウイフルーツなどの換金作物が栽培されている。

農村部の被災者が都市部の人と同じ公共施設やサービスを利用できるように、都市部の基準に基づいて、水道、電気、ガス、光ファイバー通信、ブロードバンドなどの公共施設を農村の新しいコミュニティーに導入した。「復興活動によって、私たちの生活レベルは少なくとも20年先の水準に進んだと思いますね」と、鹿坪村の村人、高玉華さんは感慨深そうに話してくれた。

被災地の校舎建設支援

震災後、上海市で20年以上教師を務めてきた沈翠英さんは、「終いの住処」として用意した住宅を売り、被災地の子どもたちが安心して勉強できる校舎の建設費用に振り向けることにした。競売によって得た450万元を上海市の「一対一支援」対象の都江堰市に寄付し、校舎の建設に使われることになった。沈さんはネットユーザーたちに「最も立派な退職女性教師」だと呼ばれるようなった。

2011年3月末時点で、成都市の3148件の復興プロジェクトのうち、2956件が完成し、投資総額は831億8千万元に達した。共産党成都市委員会副書記・市長の葛紅林氏は「この3年の間に、成都は巨大震災と国際金融危機という二重の不利な要素の影響をしのぎ、経済、社会の安定的かつ迅速な発展を実現した。被災地の経済、社会は飛躍的な発展を遂げ、災害後の復興は決定的な勝利を獲得した」と、胸を張った。

観光に転進した水磨鎮

水磨鎮で取材団のバスから降りると、観光客の人並みに驚かされた。震源からわずか50キロで、山河が崩れ、チベット族、チャン族、漢族、回族が住む山里は、壊滅的な被害を受けた。だが、再建に際して、従来の農業、工業中心の産業構造から一転して、風光明媚な土地柄を生かして、観光の街として、発展することにした。観光業への転進を決意させたもうひとつの理由はここがチベット族とチャン族が共存している自治州で両民族の文化、伝統に触れることができるからだった。

また、水磨鎮のチャン族集落は北京大学の専門家が設計し、広東省仏山市の「一対一支援」で質の高いコミュニティーとして造成された。復興振りは国際的にも高く評価され、「ベスト災害後復興賞」も受賞している。震災後、かつて老人村だった禅寿老街は住居兼用の土産物屋や食べ物屋が軒を連ねる観光通りとして大変身を遂げている。客引きの声が響き、そろいの帽子をかぶった団体客が歩き、まるで日本の温泉街を思わせる賑わいで、活気に満ちていた。

白鹿鎮にフランスの街

震災後、彭州市白鹿鎮も積極的に産業構造を変え「豊かな自然と豊かな住民、観光で街おこし」をモットーに掲げ、復興に取り組んできた。その目玉が興鹿街に登場したヨーロッパ風の通りだ。かつてフランスの宣教師が教会をつくったことからフランスとは縁があったが、テーマパークを彷彿させる観光資源づくりを目指しているようだ。なだらかな坂道の両側に西洋風レストラン、喫茶店、写真館が並んでいる。青い尖塔、白壁の洋館、黄色を基調にしたブティックで旅情をかきたてようというわけだ。ロマンティックな雰囲気をつくり、若者にここで結婚式をしてもらおうという狙いもあるそうだ。

喫茶店に入ってみた。コーヒーの香りを楽しみながら、通りを見ると、真っ白い鹿の像が観光客を待っている。若い店主に声を掛けると「フランスに行ったことはありませんが、雰囲気を出せるように研究しています」と、笑顔で新しい街づくりに意欲を示していた。

 

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