心機一転 綿竹、北川、都江堰

 

沈暁寧=文

「今度の地震は私を完全に打ち砕いてしまいましたが、全く新しい私を創り出しもしました」と、綿竹市金花鎮玄郎村の劉小蓉さんは感慨深げに語った。劉さんは震災前、幸せな家庭生活を送っていた。夫は鎮の学校教師で、息子は中学生、彼女はごく普通の主婦だった。面倒見のよい夫のおかげで、何も心配事はなかった。ただ、村の行政に不満があり、他の村人と一緒に上級官庁に陳情に出かけることもあった。

震災未亡人が食堂開店

1歳の息子と遊ぶ邱麗さん。強固な意志と楽観的な生活態度を持つ彼女は希望に満ちている(写真・沈曉寧)
しかし、大地震が夫の命を奪ってしまった。「息子はまだ小さく、わたしは何もできませんでした。携帯の使い方さえ分からなかったのです。毎日、テントの中に座り、ぼんやりして、ただただ泣いていました。外へ出かけたくないし、他人と話したくありませんでした」と、悲嘆にくれていた日々のことを話してくれた。震災未亡人になった彼女は生きていくすべもないまま、半年余りが過ぎ去った。

2008年の年末、友達の一人の自宅に招かれた。田舎で学校教師をしていた友達は、授業をしながらニワトリを飼っていた。同じ被災者だが、充実した生活を送っていることを知った彼女は、自分もこのままではいけないと、一念発起。2009年の3月、彼女は車の運転教習を受け、運転ができるようになると、借金して中古のマイクロバスを買い、客を乗せる仕事を始めた。自分で稼いだお金で、家族を養うことができるようになると、心も明るくなってきた。一年後、江蘇省の建設援助隊は、彼女に新しい家を建てた。2階建ての自宅を見て、劉さんは「農家の味」を出す食堂を開きたいと決意を固めた。

「政府は無償で新しい家を建ててくれたし、1万元の補償金をくれました。その上、食堂を開いたことを知ると、テーブルやイスを持ってきてくれました」と、劉さんは店内の調度品を指差しながら説明してくれた。

取材班もここで昼食を取った。劉さんと母親の2人で作る手料理は都会のレストランでは味わえない「農家の味」だった。

片腕になっても明るく

綿竹市漢旺鎮の邱麗さんは、東方蒸気タービン工場でフライス盤工として働く26歳の女性工員だった。地震が起きた日、北京行きの飛行機に乗るはずだった。ところが家の事情で急きょ旅行をキャンセルし、普段どおり出勤していた。大地震が直撃。落ちてきた何かに当たって、彼女の右腕は永遠に失われてしまった。

誰もが気の毒に思い同情したが、楽天的な彼女は「死ななかったのだから、不幸中の幸い」と、受け止めていた。身体が回復すると、直ぐに左手だけで生活する練習を始めた。1カ月足らずで、左手で字が書けるようになった。その上、2009年7月、男の子を無事に出産し、母親になった。

ただ、もう前の工場で働けなかったので、地元政府の支援を受けて、小さな雑貨店を始めた。しかし、小商いで一生を送るつもりはなかった。2010年8月、江蘇省無錫市の機械加工の橋聯集団が漢旺で工員を募集していることを聞くと、直ぐに応募した。「片腕しかなくても、力いっぱい仕事をすれば、最高の仕事ができると思います」と、面接者に自信たっぷりに語った。積極的な態度が採用担当者を動かしたのか、彼女に対する思いやりからか、橋聯集団の倉庫管理の仕事に就職できた。半月もたたないうちに、賢い彼女は仕事のコツを飲み込み、同僚にも溶け込んだ。

現在、彼女は毎月千元の給料を支給され、仕事に大いに満足している。「もっと努力して、給料がもっと増えれば、子供の勉強に適した環境をつくってやり、両親を養老保険に加入させたい」と、笑顔で話していた。また、お金を貯めて、あの日行くはずだった北京旅行の夢をかなえたい、と考えているそうだ。

見習ってボランティア

美しい自作の刺繍作品を披露する鍾思琦さん(写真・沈曉寧)
綿竹市遵道鎮に住んでいた鍾思琦さん一家の住宅は大地震で8部屋が全壊した。幸い、家族はみな無事だった。地震後、綿竹市内で衣料品を販売していた鍾思琦さん(25)は急いで駆けつけ、家族といっしょに臨時のテント住宅に住むようになった。

半年に及んだテント生活を回想して、「生活は大変不便でしたが、人情にあふれ、充実していました」と、語ってくれた。地震直後、同郷の人々の多くは恐怖と絶望にさいなまれていた。そこで、彼女は小学校以来、練習に励んできた刺繍を近所の女性たちに教えることにした。無料の刺繍教室には、多い時は30人が出席した。みんなの腕が上がると、ハンカチやイラスト入りの作品をまとめて商店に売り、収入の道を開き、新生活に希望を与えた。彼女は「実際は私もボランティアのみなさんの影響を受けたのです。かれらは自分たちの平穏な生活を離れ、われわれを無私の気持ちで助けてくれました。感動させられたし、尊敬もしました」と、話していた。

2010年1月、新居に引っ越した彼女は小規模のボランティア組織をつくり、雲南省のイ(彝)族の山里を訪れ、村人に映画を見せた。集落から集落への移動は徒歩で2時間から五時間もかかったが、山里の老若男女が集まり、興味津々で映画を見て、名残を惜しんで見送ってくれる時に、うれしさはひとしおだった。ぬかるみや山道を歩いているうちに愛情が芽生え、2010年5月、メンバーの男性と結婚した。

結婚後、夫は道路工事に出かけ、彼女は家で刺繍を続けた。作品をネット・オークションに掛け、1万元以上稼いだ。彼女はこのお金を大学に合格した山里の貧乏な二人の女の子に贈った。「地震で私の心の奥底から感動したのはボランティア精神でした」と、力を込めて語った。

復興に生きた経営手腕

綿竹市玄郎村の党の支部委員会書記・孫秀華氏(57)は、背が低く、太っていて、鼻は大きく、唇は厚い。見るからに温厚篤実な、普通の村の幹部だが、実は波乱万丈の人生経歴の持ち主だ。

1991年、彼は村のリン鉱石工場のひとつを請け負い、数年の間に数百万元の個人資産を蓄えた。2000年、村の党の支部委員会書記の選挙で村の党員たちは「先に豊かになった」彼を選んだ。彼は喜んで就任したが、家人は不満だった。書記の収入はリン鉱石の商売に遠く及ばなかったからだ。

就任後、村人の先頭に立って、半年かけて、12キロの道路をアスファルト舗装し、外部との連絡が不便だった歴史に終止符を打った。次に、風光明媚な土地柄を生かして、観光事業に取り組むことを提案した。個人的な蓄えと借款で、1千万元余を投入してレジャーセンターを建設した。

2009年3月、歩行訓練をする申桂珍さん(写真・劉世昭)
ところが、レジャーセンター開業の前日、あの大地震に見舞われた。彼は投資を水の泡にしてしまったばかりか、82歳の母親の命も奪われた。しかし、彼は自分のことを顧みず、寸暇を惜しんで、村人の救済に立ち上がった。村人を緊急避難させると同時に、震災情報を上部に報告し、また、負傷者の搬送にも携わった。

2009年6月、復興工事が始まった。彼は自ら新村建設予定地の選定、計画策定と村人の転居作業に身を投じた。彼のかつての企業経営の手腕が大いに役立った。2010年1月、新玄郎村が完成し、各地に散らばっていた422戸の村人が、美しく清潔で近代的な新しい村に落ち着いた。

2013年、60歳になる孫氏は定年退職の時期を迎える。残り2年の任期中に汚水処理場を建設し、クルミ、モウソウチク、キウイフルーツなどの換金作物の作付けを推進し、村人の平均年収を1万元以上に引き上げたい、と願っている。

災難を克服して幸せに

成都市が管轄する都江堰市に住む申桂珍さん(38)も被災者の一人で、本誌取材班は救出直後からずっと彼女の取材を続けてきた。大地震が起きて間もなく、申さんが廃墟から救い出された光景を取材した。1年後、リハビリの様子や家族との仮設住宅での生活ぶりを紹介した。3度目の今回は、新居を訪ねた。家族といっしょに幸せな人生を歩み始めていた。

ドラマのストーリーのようだが、申さん一家が今住んでいる「幸福の家コミュニティー」は、3年前に彼女が長時間閉じ込められていた廃墟の上に建っている。彼女が苦痛を乗り越え、幸福を取り戻していく過程は、この3年の成都の復興の縮図といえよう。また、政府が被災地の人々に与えた強力な支援、社会各界が示した配慮、そして、被災者たちの不断の自助努力の跡を物語っている。

 

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