中国共産党中央党校党史研究室教授 謝春濤 氏
一国に二つの世界
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謝春濤(しゃしゅんとう) |
Profile1963年2月生まれ。山東省臨沭県出身。1988年から中国共産党中央党校で党史と理論の教育、研究に従事している。現在、同校党史研究部副主任、教授、博士課程指導教官。浙江省金華市副市長を兼任。主な編著に『中国の特色ある社会主義史』『転換する中国-1976-1982』『歴史的軌跡 中国共産党はなぜできるのか?』など。 | 1944年6月20日、在中国米国大使館の外交官ジョン・S・サービス氏は、国務省あての報告書に次のように書いた。「(国民党)政府と軍には、上層部から末端に至るまで、空前の規模の底知れない汚職、腐敗と綱紀弛緩がはびこっている」
この報告書提出からほぼ1カ月後、同氏は共産党指導下の延安を訪れた。彼はそこが国民党支配地区と全く異なる雰囲気だと感じた。「人々の言動には見栄も誇張もなく、いんぎん無礼も紋切り型のあいさつもなかった。人間関係は率直で誠意にあふれ、友好的だった。至るところで民主と民衆との水魚の交わりが強調されていた」
同氏の目に映った全く別物の二つの世界は同時に中国に存在し、内戦で対立していた。双方の多数の明白な「相違」は、かなりの程度、内戦の最終的な結果を決定付けた。
多党派の連合政府
1944年9月、中国共産党は連合政府の樹立、国民党一党独裁の終了、民主を基礎とする多党制の実行を初めて公然と打ち出した。この主張は、直ちに広範な中間勢力の支持を得た。
しかし、国民党の中国政局に関する考え方は、中国共産党と全く異なっていた。国内外の世論をごまかすため、国民党は中国共産党の指導者に協議を持ちかけ、これを受けて、毛沢東は自ら重慶に赴き協議に臨んだ。しかし、国民党当局は毛沢東の来訪を予期していなかったため、何の準備もなく、ただおざなりに対応しただけだった。共産党と民主諸党派の努力によって、国共双方は協議の結果、若干の合意に達した。ところが、協議書の墨がまだ乾かないうちに、国民党は横暴にも共産党支配地区に軍事行動を発動し、中国の内戦が爆発した。
その一切を目にした中国社会各界の人々はやっと国民党政府の本質をはっきりと見抜き、その結果、広範な民心民力を結集させ、国民党に打ち勝つ堅固な基礎が築いた。
立ち上がった農民
中国の土地問題は古く、歴史上、農民が土地を求めるための革命はしばしば起きていた。しかし、中国のこの「千年の難題」は、中国共産党によって解決された。
1947年9月、中国共産党は『中国土地法大綱』を発布し、土地を均等に配分する政策を実行に移した。1949年上半期までに、1億人近くの農民が土地を手にした。農民政策の成功によって、共産党は広範な農民の真の支持を獲得した。山東省だけでも、国共内戦時期に共産党のために、95万人の兵士を輸送し、1106万人の農民労働力と民兵を動員し、部隊の物資輸送を支援した。
中国の当時の状況に詳しい米国のジョン・L・スチュアート元大使はかつて次のように語った。「中国では皆が知っていることだが、共産党対策は、武力に頼って解決するのではなく、農村の広範な民衆のために、共産党が管轄する地方政府よりももっとよい地方政府を樹立すれば、問題は自然に解決できる。国民党政権の最大の弱点は、その問題に対して、払うべき注意を払わなかったことだ」
民心失った国民党
国民党はますます民心を失っていった。一般民衆は国民党の兵隊を恐れ、国民党の収税官を恐れていた。農民が造反し、学生は徴兵、徴発に抵抗した。国民党支配地区で、物価が高騰し、悪性インフレに陥った。1949年2月、国民党政府が発行、流通させていた紙幣の全額を2千万ドルで買い取ることができ、1カ月後には、わずか1千万ドルで可能だった。
1947年5月、南京の大学生はデモ行進をしながら、次のように話していた。「紙幣印刷機が回りっぱなしなので、われわれ学生と大多数の民衆の生活水準は畜生並みに落ちてしまった」。北京大学学長だった胡適は日記に「きょうの教授会で、皆が話し、考えたことはと言えば、いずれも食べることだった」と書いた。
知識人、青年学生、小売商人、手工業者、自由業者など各階層の民衆は、自らの生存環境の悪化のため、国民党に対する信頼を失い、彼らは反国民党の第二戦線を形成した。毛沢東の言ったとおりに「蒋介石国民党はすでに人民に包囲されている」。
際立った国共の対照
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1939年、延安の楊家嶺で農民に生産と生活の状況を尋ねている毛沢東(左端)(新華社) | 1948年、戦場で不利に陥った蒋介石はある演説で、厳しくこう語った。「正直に言えば、古今東西、今日のわれわれのように意気消沈し、堕落腐敗している革命政党はなかった。われわれのように、規律を守らず、是非の基準がない政党もなかった。このような政党は早く消滅し、淘汰されるべきだった」
一方の中国共産党を見ると、毛沢東は「戦争の決定的な要素は人間であり、物ではない。力の対比は軍事力と経済力の対比だけでなく、人力と人心の対比でもある」と、考えていた。ジョン・L・スチュアート氏は国民党が大陸を失った原因を総括したとき、こう述べた。「中国の民衆、特に農民にも、国内外の観察者にも、共産党はこういう印象で受け止められていた。同党は人民の事業に誠心誠意力を注ぎ、中国の民主事業を促進し、中国が各民族の大家族の中で真に独立した力強い地位を獲得することを望んでいる。共産党が成功した理由は、同党のメンバーの事業に対する私心のない献身的な精神と大きくかかわっている。残念なことに、一部の国民党党員にはこのような精神が欠けていたのだ」
「民心を得た者が天下を取る」という中国の古いことわざがある。人心の向背が最終的に戦争の勝敗を決定した。
人民中国インターネット版 2012年1月5日
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