中国共産党中央党校党史研究室教授 謝春濤 氏
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謝春濤(しゃしゅんとう) |
Profile1963年2月生まれ。山東省臨沭県出身。1988年から中国共産党中央党校で党史と理論の教育、研究に従事している。現在、同校党史研究部副主任、教授、博士課程指導教官。浙江省金華市副市長を兼任。主な編著に『中国の特色ある社会主義史』『転換する中国-1976-1982』『歴史的軌跡 中国共産党はなぜできるのか?』など。 | 現在、世界のほとんど全部の国で二党制や多党制を実行しているが、なぜ中国だけが一貫して共産党指導下の多党協力制度を実行しているのだろうか?答えは実に簡単だ。それが歴史的な選択だからだ。
線香花火だった多党制
1905年8月、孫文は東京で同盟会を創設し、民族、民権、民生という三民主義を提起した。これが中国初の現代的な意味での政党だった。彼の呼びかけと発動によって、1911年10月、辛亥革命が勃発した。1912年元旦、孫文は南京で中華民国臨時大総統就任を宣誓し、中国で2000年以上続いた封建君主専制制度にピリオドを打った。
中国初のブルジョア政党のリーダーとして、孫文は西方の経験を参考に、憲法の性質をもつ『中華民国臨時約法』の成立に先陣に立って取り組み、西方の民主制度と立法、行政、司法の「三権分立」の原則に基づき、責任内閣制を実行し、結社と政党結成を許可した。一時的に、中国で、大小さまざまな政党が300以上も結成された。
強大な軍隊を牛耳っていた袁世凱に清朝皇帝の退位を迫らせるために、1912年2月、孫文は臨時大総統を辞任し、袁世凱に譲った。想定に反して、袁世凱は専制独裁の道へ向かった。彼に反対する革命勢力を武力鎮圧し、国民党を解散し、国会を廃止した。1913年末、各政党は相次いで瓦解し、中国の多党制は失敗に終わった。
米国の著名な中国学者であるジョン・キング・フェアバンク氏はその失敗の原因をこう分析している。当時の中国の政党には第一に共同の目標がなく、第二に政治体制と国民参加が欠如していた。最も重要なのは、中国の政治的な伝統から逸脱したからだ。
二党制でない国共合作
1921年7月、労農大衆に根を下ろした中国共産党が誕生した。共産党は直ちに、国民党の改組過程でたびたび困難に見舞われた孫文に支援の手を差し伸べた。
第一次国共合作は「党内連合」の形で実行され、共産党員は個人の立場で国民党に入党した。当時、毛沢東は国民党中央宣伝部の部長代理に、周恩来も国民党黄埔軍官学校の政治部主任に就任した。共産党の支援の下、国民党は比較的明確な民族民主革命綱領をつくり、自らの軍隊を訓練し、末端組織を発展させていった。
1925年、孫文は北京で病没した。その後軍権を手に入れた蒋介石が独裁統治を始めた。1927年4月、蒋介石は共産党に対して野蛮な刀を振るい、第一次国共合作は決裂し、国共両党は10年におよぶ内戦期に入った。
1930年代、日本軍国主義の侵略が次第に拡大するに連れ、1935年8月1日、中国共産党中央委員会は『抗日救国のために全同胞に告げる書』を発表し、全国人民が団結し、内戦をやめ、抗日救国に立ち上がろうと、呼びかけた。この宣言は直ちに全国民に支持され、1937年、第2次国共合作が始まった。
第2次国共合作は第1次と違って、中国共産党は合法的な政党となり、指導下の地区は中華民国の特区政府となった。1945年、抗日戦争で勝利を収めた後、毛沢東は蒋介石と重慶で交渉した。共産党は平和的な建国の方針を打ち出し、社会各界には国内平和と民主建国に対する憧憬が満ちあふれていた。
当時の中国では多党制の形成が可能だったが、蒋介石の「一党独裁」の理念が根強く、強大な軍事力を笠に着ていた上に、米国の肩入れもあり、結局は共産党に対する武力攻撃を発動した。1946年、内戦の銃声が響き、第2次国共合作も決裂を宣告された。
苦難経て実現した制度
3年にわたる内戦によって、民心を失った国民党は台湾に敗走し、人民に擁護された中国共産党が新中国を樹立した。1949年9月21日、中国人民政治協商会議第一回全体会議が北京で開催された。中国共産党のほか11の民主諸党派と無党派人士が参加した。中国共産党は民主諸党派、民主人士と平等な立場で討議し、協議し、新中国の国名と建国記念日などについて、いずれも民主人士の意見を採用した。選出された中央人民政府委員のうち、半数は民主諸党派の出身だった。
中国人民政治協商会議で誕生した中華人民共和国中央人民政府は中国史上初めての真の民主連合政府であり、また共産党指導下の多党協力の構造の基礎となった。
中国共産党指導下の多党協力制度は、中国が多党制実験の失敗、二度にわたる国共合作の決裂という苦痛に満ちた経験を経て選択した政党制度だ。この制度によって、多党による無秩序なあつれきが避けられ、一党による専制独裁からも抜け出すことができる。つまり中国の実際から出発した中国の特色のある政党制度なのだ。
非共産党の指導者奨励
1956年の毛沢東の『十大関係について』、1982年中国共産党第12回全国代表大会で提起された中国共産党と民主諸党派の関係を規定した基本方針から、1989年中国共産党中央委員会が制定した『中国共産党指導下の多党協力と政治協商制度の堅持と整備に関する意見』に至るまで、中国共産党と民主諸党派は次第に次のような関係を構築してきた。つまり、「長期共存、相互監督、肝胆相照らし、栄辱を共にする」という基礎の上で、中国共産党は社会主義事業の指導の核心であり、執政党であり、民主諸党派は中国共産党の指導下で、中国共産党と力を合わせ協力する親密な友党であり、参政党、という関係だ。
2002年以来、胡錦濤氏を総書記とする中国共産党中央委員会は民主諸党派との協力をさらに強め、より多くの優秀な非共産党幹部が指導者のポストに着くことを奨励した。2008年までに、省クラスの指導者の中で、非共産党人士は205人に達した。同時に、中国政府が発表した白書『中国の政党制度』は、中国の多党協力制度の価値と機能を政治参加、意思表示権、社会的な整合性、民主的監督、安定維持という五つの側面で線引きした。
時代の進展とともに、中国共産党指導下の多党協力と政治協商制度は絶えず内容が豊富になり、発展しつつある。
人民中国インターネット版 2012年7月17日
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