釣魚島及びその付属島嶼は、古来より中国の固有の領土であり、中国はこれに対して争うことのできない歴史的・法的根拠がある。中日双方に釣魚島の主権帰属問題で係争があることは客観的事実であるが、中国側は一貫して事実を尊重することを踏まえて、外交交渉によって問題の解決をめざすよう主張している。
◇釣魚島及びその付属島嶼が中国の固有の領土である歴史的・法的根拠
数多くの文献、史料が示しているように、釣魚島及びその付属島嶼は、中国人民が最も早く発見し、命名し、利用し、わが国の漁民が世々代々これらの島嶼と付近海域で漁労などの生産活動に携わってきた。15世紀以前、中国南東沿岸部の一部商人、漁民は釣魚島とその付属島嶼を航海時の標識としていた。
わが国の明と清の時代に、中国はずっと釣魚島とその付属島嶼に対して主権を行使していた。早くも明の初期において、釣魚島とその付属島嶼は中国の版図に組み入れられ、永楽年間(紀元1403~1424)に出版された『順風相送』と言う書物に、中国人が福建省から琉球に行く途中通り過ぎた釣魚嶼、赤坎嶼 (すなわち赤尾嶼)などの島嶼の名前がはっきり記載されていた。
明と清の時代に琉球王国に派遣された冊封使が出使録の中で、釣魚島などの島嶼は中国の領土であり、これらの島嶼を越えて初めて琉球の海域に入ると記載されている。明朝の冊封使だった陳侃が、1543年に著わした『使琉球録』には、「釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぎて、目まぐるしく変わり・・・・・・古米山(久米島)が見えて、琉球に属することになる」と記載されている。清朝の敕命で派遣された鉄差大臣の黄叔儆が台湾を巡視した後の1722年に著わした『台湾使槎録』にも、「大洋の北側に山があり、その名は釣魚台、10あまりの大きな船が停泊することができる」と言う釣魚島に関する記載がある。
明朝の総督の胡宗憲が作成した『籌海図編』は、明朝の海洋防衛の管轄下の沿海島嶼を明記しており、その中に釣魚島とその付属島嶼が含まれており、これは釣魚島及びその付属島嶼が明朝から中国の海洋防衛の管轄範囲内にあったことを裏付けている。
地理的に見ても、釣魚島とその付属島嶼の東側には深さ2000メートルを超える沖縄トラフがあり、琉球列島はこれと隔てた向こう側にある。激しい黒潮が南西から北東方向に、ここを通過するが、当時の航行技術では東側の船がこれらの島々に近づくことは非常に難しかった。これは、中国人が釣魚島とその付属島嶼を最も早く発見、利用したことが偶然のことでないということを示している。
◇日本と国際社会はかつて釣魚島は中国のものであると認めていた
日本の近代以前の正史、国誌と学者の文章では、中国の釣魚島への領有権主張に如何なる異議も唱えていかっただけでなく、中国名称島名をそのまま使用していた。日本で、19世紀中ごろ以前に出版されたさまざまな地図はいずれも釣魚島の色を中国大陸と同じ色とし、1892年に出版された『大日本府県別地図並地名大鑑』もまだ釣魚島を日本の領土に組み入れていなかった。
日本の学者林子平が1785年に著わした『三国通覧図説』の付録地図である「琉球三省並三十六島之図」に、釣魚島などの島嶼の色付けは中国大陸と同じであり、琉球列島の範囲内にはなかった。
1605年、琉球王国の執政官が『琉球国中山世鑑』という書物の中で、「姑米山(現在久米山と呼び、赤尾嶼の東側にある)」を琉球との境界であると主張している。1701年、琉球国の使節が献上した『中山世譜』の地図及びその説明文にも琉球36島に関する記載があるが、その中に釣魚島及びその付属島嶼は含まれていなかった。19世紀70年代の終わりごろから80年代の初めごろにかけて、清の李鴻章が日本と琉球の帰属問題について交渉を行った際、双方は琉球の範囲は36島に限定し、釣魚島とその付属島嶼は含まれないということを確認した。
19世紀のイギリス、フランス、アメリカ、スペインなどの列強の関連文献や地図も、釣魚島は中国の領土であると認めている。1877年、イギリス海軍が作成した『中国南東沿海の香港から遼東湾までの海図』では、釣魚島を台湾の付属島嶼とみなし、日本の西南諸島と明確に区別している。この地図はその後の国際往来の中で、幅広く使われてきた。『馬関条約』はこの地図を利用して彭湖列島の範囲を定めている。
1941年、日本統治時代の「台北州」と沖縄県との釣魚島に関する漁業紛争をめぐり、日本の裁判所はこれらの島は「台北州」の管轄下にあるとの判決を下している。日本統治時代に「台湾警備府長官」を務めていた福田良三の証言によると、当時、釣魚島などの島嶼は「台湾警備府長官」の管轄範囲内にあり、台湾の漁民が釣魚島一帯で漁労をする場合、「台北州」の許可証が必要としていた。これは、日本の植民地時代においても、これらの島々が台湾の付属島嶼として管理されていたことを示している。
1943年12月、中・米・英三カ国首脳による『カイロ宣言』では、日本が窃取した中国の領土を中国に返還すべきだと明示されている。1945年の『ポツダム宣言』において、「『カイロ宣言』の事項は必ず実施されなければならず、日本の主権は必ず本州、北海道、九州、四国及びわれわれが定めたその他の小さな島の範囲内にあるとする」とされている。同年8月、日本は『ポツダム宣言』を受け入れ、無条件降伏すると発表した。『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』に基づき、中国が日本に窃取された台湾、彭湖列島などの領土を取り戻した。台湾の付属島嶼である釣魚島などの島々も国際法上それにともなって中国の版図に戻った。
◇日本による釣魚島の不法窃取
1884年に、日本人古賀辰四郎という人が「無主地」を発見したと主張した。1885年から1893年にかけて沖縄県庁は三回にわたり、日本政府に釣魚島とその付属島嶼を同県の管轄下に編入し、標識を建てるよう求めた。日本政府は清朝朝廷の反応を気兼ねし、批准する勇気がなかった。1895年1月、日本は中日甲午戦争で清朝の敗戦がすでに決定的になったことに乗じ、釣魚島およびその付属島嶼を窃取し、沖縄県の管轄下に編入した。同年4月、日本は不平等な「馬関条約(下関条約)」の締結により、清朝朝廷に「台湾全島およびすべての付属島嶼」を日本に割譲することを迫った。1900年、日本政府は釣魚島およびその付属島嶼を「尖閣諸島」に改名した。
◇日米による勝手な引渡しと受け入れとわが方の抗議声明
1951年9月8日、日本とアメリカは「サンフランシスコ講和条約」を一方的に締結し、北緯29度以南の南西諸島などの島嶼をアメリカを唯一の施政者とする信託統治下に置いた。1953年12月、アメリカの信託統治下にあった琉球当局は公告を出し、釣魚島およびその付属島嶼を明確にその管轄下に組み込んだ。
1951年9月18日、周恩来総理兼外交部長は中国政府を代表して「サンフランシスコ講和条約には中華人民共和国が準備、起草、調印に参加していないため、不法且つ無効であり、断じて承認できない」との声明を厳かに発表した。
1971年6月17日、日本とアメリカは「沖縄返還協定」に調印し、アメリカは1972年5月15日に琉球諸島などの諸島の施政権を日本に返還することにした。釣魚島及びその付属島嶼も「返還地域」に組み入れられた。調印の同日に、アメリカ国務省の報道官は「沖縄の施政権返還は、『尖閣諸島』の問題にいかなる影響ももたらすものではない」と表明した。
中国外交部は1971年12月30日に声明を発表し、「米日両国が沖縄返還協定の中で、わが国の釣魚島などの島嶼を「返還地域」に組み入れたことは、まったく不法なことであり、これは中国の領土主権に対する公然たる侵害であり、中国人民は絶対に容認することはできない」と重ねて表明した。
◇日本側による「島購入」の問題
2012年4月、日本の極右政客である石原慎太郎東京都知事は、釣魚島の「購入」企みを明らかにし、全国に向けて寄付を呼びかけた。7月、日本政府はいわゆる「国有化」プランを明らかにした。
中国は度重ねて日本側に対し厳正な交渉を申し入れ、釣魚島とその付属島嶼は古来より中国の固有の領土であり、中国にはこれについて争うことのできない主権を持ち、中国側は日本側が中国の神聖なる領土を売買をすることに断固反対すると表明した。日本側の釣魚島およびその付属島嶼に対するいかなる一方的な行動も不法であり、無効であり、これは中華人民共和国の釣魚島などの島嶼に対する領土主権をいささかに変えられるものではないと強調した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年9月10日
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