二、釣魚島は古来より中国の領土である
(一)中国は最も早く釣魚島を発見、命名、利用した
釣魚島は古来より中国固有の領土である。大量の文献と史料が示すように、釣魚島は中国人が最も早く発見、命名、利用し、遅くとも明の初期に中国の版図に組み入れられた。中国の漁民は代々これらの島嶼及び付近の海域で漁をしてきた。15世紀以前、中国東南沿海の商人と漁民は釣魚島を航海の際の目印としていた。
現存する最も早く釣魚島を記載した史籍は1403年(明の永楽元年)に出版された『順風相送』で、本の中には中国の海上航路と経由する島嶼が記載されており、「釣魚嶼」(すなわち釣魚島)「赤坎嶼」(すなわち赤尾嶼)などの名称が明確に記載されている。
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『順風相送』の釣魚島赤尾嶼に関する記載 |
中国の明・清両代の朝廷は、24回にわたって琉球王国へ冊封使を派遣し、大量の『使琉球録』を残している。その中には比較的詳しく釣魚島の地形が記載されており、みな釣魚島などの島嶼を中国領だと指摘している。1534年(明の嘉靖13年)、明の冊封使・陳侃が記した『使琉球録』には、「釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接する暇あらず。……古米山を見る。乃ち琉球に属する者なり。夷人(冊封使の船に乗った琉球人)船に鼓舞し、家に達するを喜ぶ」と記載されている。つまり琉球人が船に乗り赤嶼(今の赤尾嶼)を過ぎ、古米山(今の久米島)を見ると琉球に着いたと思ったということで、これは、釣魚島は中国の領土であり、琉球の国土ではなかったことを示している。
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『使琉球録』の中の釣魚島に関する記載 |
1719年(清の康熙58年)に清の冊封副使・徐葆光が著した『中山伝信録』では、八重山は、「琉球の西南極に属す境界」と明確に記載されている。福建から琉球まで「花瓶嶼、彭家山、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼を経て、姑米山(琉球の西南方境界上の鎮山)、馬歯島を通る道を取り、琉球那覇港に入る」という記述がある。ここで言う「界上の鎮山」は、即ち琉球西南海上の境界にある主要島嶼だ。当時、琉球で権威ある学者であった程順則が、『指南広義』の中でこれと同じような論述を行っており、これは時間的にも『中山伝信録』より早い。このことから、当時、中国と琉球は両国の海上境界と関連島嶼の帰属に対する認識を非常に明確に持っており、そして完全に一致していたことが分かる。
(二)中国は釣魚島を長期的に管轄していた
中国の明、清両朝はずっと釣魚島の管轄を実施していた。早くも14世紀、即ち明の初期から、中国の海防将校の張赫、呉禎は何度も兵士を率いて東南沿海を巡視し、倭寇を追い払い、「琉球大洋」即ち琉球海溝まで追撃した。そのとき、釣魚島などの島嶼はすでに中国が倭寇を制圧する海上の前線となっており、中国の海防範囲に含まれていた。
1556年(明の嘉靖35年)、鄭舜功は明の朝廷に派遣され、日本に赴き視察した後、『日本一鑑』を書き上げた。本の中に描かれた「滄海津鏡」図には釣魚島があり、「釣魚島は小東の小島である」と記されている。「小東」とは、当時の台湾の別称である。これは、当時の中国はすでに地理的な視点から釣魚島を台湾の付属島嶼だと認めていたことを示している。
1562年(明の嘉靖41年)、明の東南沿海に駐屯して防衛に当たった最高将校の胡宗憲が地理学者の鄭若曾と編纂した『籌海図編』では、明の海防管轄の沿海島嶼が明示されていて、同書の巻一「福建沿海山沙図」には、釣魚島およびその付属島嶼が含まれている。このことは、これらの島嶼が遅くとも明朝から中国の海防管轄範囲に含まれていたことを示している。
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『籌海図編』の巻一「福建沿海山沙図」 |
1605年(明の万暦33年)に徐必達らが描いた『乾坤一統海防全図』および1621年(明の天啓元年)に茅元儀が描いた中国海防図『武備志・海防二・福建沿海山沙図』なども、釣魚島などの島嶼を中国領に含めている。
清は明のやりかたを踏襲し、引き続き釣魚島などの島嶼を中国の海防範囲内に入れた。清の欽差大臣の黄叔儆が台湾を巡視した後、1722年(清の康熙61年)に著した『台湾使槎録』の中にも、釣魚島に関する記載がある。「大洋の北側に山があり、その名は釣魚台、10あまりの大きな船が停泊することができる」と書かれている。『台湾府志』などの公式文書にも釣魚島の管轄状況について詳しく記載されている。
1871年に編纂された『重纂福建通志』では、さらに釣魚島は台湾の噶瑪蘭庁(現在の宜蘭県)に属することを明確にしている。
(三)中国の地図は釣魚島が中国に属していることを証明している
中国の冊封使だった蕭崇業が1579年(明の万暦7年)に著した『使琉球録』の中の「琉球過海図」には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が明確に記載されている。
1744年(清の乾隆9年)に中国を訪れたフランス人のイエズス会修道士ミッシェル・ブノワ(中国名蔣友仁)は清政府の委託を受けて、1767年に『坤輿全図』を作成した。この図の中国の沿海部に、閩南語(台湾と海南島および福建省と広東省の一部沿海地域で用いられる中国語の方言)の発音で釣魚島と明記されている。
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『大清壹統輿図』(部分) |
1863年(清の同治2年)の『大清壹統輿図』には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が明確に記載されている。同図では、福建の梅花から琉球の那覇港に至るまでまで、東沙、小琉球、彭佳山、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼を経ることが描かれているが、すべての島が中国名をもつことがはっきり分かる。
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