「釣魚島――中国固有の領土」

 

四、日本による釣魚島主権の主張は歴史的および法律的な根拠がない

(一)日本が「先占」の原則によって釣魚島の主権を主張することは歴史的事実と食い違っている

日本外務省が1972年に発表した『尖閣諸島の領有権についての基本見解』によると、日本政府が釣魚島の主権を主張するいわゆる根拠のひとつが、「先占」の原則で、これにのっとって釣魚島を日本の領土範囲に組み入れたとしている。日本側の主張によると、1884年に古賀辰四郎が最初に釣魚島を「発見」、1885年以降、日本政府は何回も釣魚島で実地調査を行い、釣魚島が「無人島」で、しかも清朝による支配の痕跡がなかったことを慎重に確認し、1895年に釣魚島を自領に「組み入れた」という。

しかし、実際は釣魚島は1403年以前に中国人が発見、命名、利用し、そして中国の海洋防衛範囲に組み入れ、管轄してきた。明の初期から清の末期までの500年間、中国政府は釣魚島とその付近の海域を巡視して管轄し続けている。1885年から1893年にかけて、沖縄県は三回にわたり、日本政府に釣魚島などの島嶼を同県の管轄下に編入し、国の標識を建てるよう求めたが、日本政府は清朝の反応に気兼ねし、これを許可しようとしなかった。『日本外交文書』の記載によると、1885年9月22日、沖縄県令の西村捨三は内務大臣山県有朋への書簡で、「調査によれば、これらの無人島は『中山伝信録』に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などの島嶼と同じもので、すでに清国の冊封使の船には知られており、名称もつけられていて、琉球へ航海するときの道しるべとされていた」と述べている。1885年10月21日、外務大臣井上馨の内務大臣山県有朋宛の書簡で、「現在あえて国の標識を建てるような挙動があれば、必ず清国に疑われる。ゆえに当面は実地調査及びその港の形状、後日開発に期待できるような土地や物産などを詳細に報告するに限るべきである。国の標識を建てることや開発に着手することなどは、後ほど機会を見て行えば良い」との意見を述べている。

釣魚島は明・清の時代から「主の無い土地」ではなく、中国の領土だったことは疑いない。日本は「先占」の原則によって釣魚島の主権を主張することができない。

(二)米日の釣魚島に関するひそかな取引は不法で無効である

1972年日本外務省の『尖閣諸島領有権に関する基本見解』によれば、日本政府が釣魚島に対して主権を主張するいわゆる第二の根拠は、『サンフランシスコ講和条約』及び『沖縄返還協定』で、日本が釣魚島の「施政権」を「回収」したことであり、これは釣魚島が日本の「所有」であることを裏付けている、としている。

しかし、事実はそうではない。1894年7月、日本は甲午(日清)戦争を起こした。同年11月末に日本軍は旅順口を占領し、清朝の敗色は決定的となった。これを背景に、12月27日に内務大臣野村靖は外務大臣陸奥宗光へ書簡を出し、次のように書いている。「久場島、魚釣島に管轄の標識を建てること」について、「今や以前とは情勢が異なり、付属文書で書かれているようにこのことを閣議で改めて審議できる可能性があるので、先に貴殿と相談したい」。1895年1月11日、陸奥宗光はその提案を支持するとの返事を書いた。1月14日、日本内閣は釣魚島などの島嶼を沖縄県の管轄下に編入するという秘密決議を採択した。だが実際には、当時の日本政府は釣魚島などの島嶼にいかなる国の標識も建てておらず、沖縄の地理的範囲に関する天皇の勅令においても、釣魚島などの島嶼を明記していなかった。4月17日に、清政府は日本と不平等条約である『馬関(下関)条約』を締結し、台湾全島及び各付属島嶼を日本に割譲することを迫られ、その中には釣魚島も含まれていた。

1943年12月、中、米、英三国が「カイロ宣言」を発表した。その中で、「日本が窃取した中国の領土、例えば東北四省、台湾、澎湖群島などを中華民国に返還する。その他日本が武力または強欲によって略奪した土地からも必ず日本を追い出す」と定められた。1945年7月に、中、米、英が「ポツダム宣言」を発表(ソ連が8月に参加)した。その中の第八条では、「『カイロ宣言』の事項は必ず実施されなければならず、日本の主権は必ず本州、北海道、九州、四国及びわれわれが定めたその他の小さな島の範囲内に限るとする」と定められている。同年8月15日、日本政府は「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏した。9月2日、日本政府は「日本降伏文書」の第一及び第六条において、「『ポツダム宣言』の各条項で定められた義務を忠実に履行する」と公言した。このことから、釣魚島は台湾の付属島嶼として、台湾とともに中国に返還されるべきものである。

「カイロ宣言」英語版 「カイロ宣言」中国語版

1951年、米国は中国を排除した状況で、一部の国と共同で、日本と「サンフランシスコ講和条約」を調印し、北緯29度以南の南西諸島などの島嶼を、米国を唯一の施政者とする信託統治下に置くことを取り決めた。これには釣魚島は含まれていなかった。1953年12月25日、琉球列島米国民政府は「琉球列島の地理的境界」(第27号布告)を公布して、勝手に米国の信託統治の範囲を拡大し、釣魚島などの島嶼をその範囲に組み込んだ。1971年6月17日、米国は日本と『沖縄返還協定』を調印し、米国が琉球群島などの島嶼の施政権を日本に返還することを定め、釣魚島も「返還区域」に組み込まれた。

1951年9月18日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、「『サンフランシスコ講和条約』は中華人民共和国が準備、起草、調印に参加していないため、中央人民政府は、それが不法かつ無効であるとし、断じて承認しない」との声明を厳かに発表した。1971年12月30日、中国外交部は米日の『沖縄返還協定』の調印について声明を発表し、「米、日両国政府が沖縄『返還』協定の中でわが国の釣魚島などの島嶼を『返還区域』に組み込んだことは、全く不法なものである。これは、中華人民共和国の釣魚島に対する領土主権をいささかも変えることはできない」と指摘した。台湾当局及び海外の華僑華人も、米日が中国の釣魚島について行ったひそかな取引に強く反対の態度を表明した。

中国の反発に対し、米国は、米国政府が米日間の条約と協議により日本が釣魚島に対する主権を持つということを認めたわけではないと、態度を明らかにせざるを得なかった。1971年10月、米国政府は、「もともと日本から得たこれらの諸島の施政権を日本に返還するのは、関係主権についての主張にいかなる損害も与えるものではない。米国は日本がこれらの諸島の施政権をわれわれに委譲する前に持っていた法律的権利を増やして日本に渡すことが出来ないだけでなく、日本に施政権を返すためにその他の要求者の権利を弱めることもできない。……これらの諸島に関わるいかなる争議・要求も、すべて当事者が互いに解決すべき事柄である」と公に言明した。1996年9月11日、米国政府は、米国はいかなる国家の釣魚島に対する主権主張について認めもせず支持もしないと、改めて態度を表明した。2012年になった今でも、米国政府は依然として、釣魚島の主権所属について立場を持たないと重ねて表明している。

従って、日本政府が主張するいわゆる法律・理論的な根拠も、日本が釣魚島に対して「主権」を主張する根拠にはなりえないことが分かる。

 

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