張春侠=文 写真=馮進
|
孫をつれて耕作に出かける楊さん夫妻 | 上海市の虹橋駅から車で三十分ちょっとで、松江区泖港鎮に到着した。道中、きちんと整備された田舎道が続き、緑の田んぼと縦横に走る水路に囲まれ、日本の田園風景の中に身を置いているようだった。
泖港鎮は松江区の家庭農場テスト地点の一つで、楊玉華さんが住む胡光村には現在二十一人の家庭農場主がいて、耕地面積は二千六百八十七ムーである。楊玉華という名前を聞くと、「楊さんは村の有名人だよ」と、親指を立てながら村の朱愛龔主任は言った。「彼は村でも初期の家庭農場主の一人で、うまく田をつくっているから、全国から参観者が絶えないんだ」
楊さんの家に行ってみると、彼の家はちょうど改装中であった。「しょっちゅう参観者が来るので、古い家ではみっともないと思ってね」家庭農場のことを語り始めると、楊さんはとても誇らしげな表情となった。「私は第一回目の家庭農場主で、いわば老革命家ってところかな。家庭農場主の中では一番年上だ」彼は生まれも育ちもこの村で、十三歳の時から耕作を始めた。一九八〇年代、彼は都市の建築現場へ出稼ぎに行き、下働きから始め、管理者にまで昇り詰めた。
二〇〇七年、松江区は家庭農場の試行を始めた。それは、自主的・有償という原則で、まず各々の農地使用権を村に転貸し、さらに区の投資により耕地に統一的な整備を行い、村が農業の熟練者に耕作を請負わせ、家庭を単位とする家庭農場を経営させるものだった。
家庭農場には参入審査制度を実施しており、農民は自らの意志で経営申請を提出し、村の委員会が家庭農場の参入条件に基いて厳格に審査し、さらに村民による討論、全体会議などにより、家庭農場の経営者を選ぶ。「家庭農場はさらに毎年三度、生産・経営・管理審査が行われ、不合格となったものは淘汰されます」と、朱主任は説明する。
|
楊さんの娘と娘婿はタクシー運転手をしており、めったに帰ってこない。ふだん田んぼの雑草を抜くのは楊さん夫妻だけだ | 農民魂を失うことのなかった楊さんは、このニュースを聞いて心が動いた。彼は村に帰り、百三十六ムーの土地を村から請負い、初めての家庭農場経営者となった。当初、彼の妻は猛反対した。以前は四十余戸が一グループとなり、十数人の男で二百余ムーをやっとのことで耕作していたのに、夫婦二人で百三十六ムーは絶対無理だと思ったのだ。村人もみな半信半疑だったが、彼には科学的に耕作し、しっかり管理を行い、さらに自分が努力しさえすれば、きっとうまくゆくという自信があった。
家庭農場の育成を助けるために、松江区は政策的支持に力を入れ始めた。泖港鎮農業・農村事務室の兪春雲主任によれば、農民の食糧生産を指導するために、松江区は中央や上海市の水稲栽培補助金を基礎として、家庭農場に一ムーあたり二百元の補助金(後に奨励金となる)を与えた。決められた通りに作業を行い、各種の補助金や奨励金をすべて受け取ると、一ムーあたり六百元にも達する。その他にも、松江区農業技術センター、鎮の農業機械サービスセンターが、さらに家庭農場に栽培技術、虫害や病気の予防、気象情報、農業機械、土壌検査などの全面的なサービスを行っている。現在では、家庭農場の規模に基き、松江区全体に十四の農業用物資専門スーパーが建設されている。
「種、農薬、化学肥料は一斉配送され、種のまき時、薬を投与する時期、化学肥料を施す時期には技術部門からその都度通知がいきます。技術者もちょくちょく耕地を見回って、現場指導を行います」と、楊さんは説明する。「もし農業経験がないとしても、言われる通りにやれば、問題なくできると思います」
家庭農場制を実施する前、村では多くの土地がよそ者に請負われていた。「農薬をまいた後、その袋とか瓶とかをやたらに溝の中に放り込む人もいたため、環境汚染がひどくなりました」と、兪主任は言う。また、短期的な利益を追求するあまり、化学肥料や農薬を過度に使用し、土壌の力を奪い、継続して使うことができない土地にしてしまう人もいた。松江区は家庭農場の推進以後、秋まきでは、オオムギ・コムギ、緑肥(肥料とするための植物)、休耕地という三つの部分に分けた三年の輪作を行い、土地を豊かにし、農業の生態環境を改善すると規定している。
|
足を泥だらけにして田から帰ってきた楊さんが、家族と共に昼ごはんを食べる |
「秋の収穫後、この土地は深耕し、レンゲソウを植えます。オオムギ・コムギを植える以外にも、緑肥も、休耕も、政府の補助を受けることができます」と、楊さんは目の前の水田を指して説明する。「契約書や規定に違反していることが判明したならば、契約更新の際には資格が剥奪されます。うまく耕作していれば、優先権を得ることができます」規定によれば、家庭農場で毎年収穫される穀物は、少なくとも七割を備蓄穀物として国に売らねばならず、その残りは自分たちで食べるか、村民に売るかする。
楊さんの家庭農場は普段は夫婦二人だけで管理しており、農繁期には数人の臨時労働者を雇い入れる。「今は労働力も不足していて、機械化されていなければ百ムーを超える土地を耕すことはできません」機械化を進めるために、松江区では三十の農業専用機械協同組合を組織し、六、七割にも達する農業機械購入補助を提供し、家庭農場の水稲生産を全面的に機械化するサービスを提供し始めた。上海興泖農業機械専業組合の楊建光社長によると、「古い収穫機は七、八人で操作する必要があり、さらに袋詰めして、しばって、陰干しする必要がありました。われわれが新たに購入したクボタのコンバインは二人だけですべての作業を終えることができます。収穫後に直接食糧買取所に持っていって乾燥させ、売却するだけです」。
|
楊さんは村の136ムーの生産力が高い田に「秀水13号」の水稲を植えた。目標は1ムーあたり650キロだ |
ここ数年の収穫について語っている時、楊さんは部屋からさまざまな研修終了証を持ち出してきた。土壌肥料および施肥技術、水稲栽培技術、水稲病虫害防止などが研修の内容である。規定によれば、松江区の家庭農場で働く農民はすべて、二カ月の専門訓練を受けなければならず、その後に試験に合格すると終了証がもらえる。「現在、農業をするにも科学を理解しなければなりません。農業にもたくさんの知識が必要です」楊さんは、科学的知識と出稼ぎをしていた時に得た管理経験をすべて、彼の家庭農場に生かしている。二〇〇七年の始めたばかりの頃は、楊さんの植えた稲の一ムーごとの生産量は五百キロに過ぎなかったが、現在は毎年六百キロを超えていて、何年も連続で稲の生産量コンテストで優秀賞を獲得している。二〇一一年、楊さんの農場は「松江区優秀食糧家庭農場」に選ばれ、松江区農業技術推進センターの科学技術モデル農家となった。二〇一二年、楊さんの家庭農場の純収入は十万元に達した。兪主任はこれを聞いて、「楊さんは控えめだな。実際の収入は十万どころではないんじゃないか」と、冗談めかして言った。
今後について楊さんは、「規定によれば、六〇になった時には家庭農場の請負ができなくなります。もしこの制限さえなければ、私自身は六五までやっても全く問題ないと思うのですが」と、語る。
人民中国インターネット版 2013年10月
|