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迫慶一郎さん(43) |
1970年福岡県生まれ。1996年東京工業大学大学院修士課程修了。山本理顕設計工場を経て、2004年SAKO建築設計工社設立。米国コロンビア大学客員研究員、文化庁派遣芸術家在外研修員(2004年~05年)。現在は北京と東京と福岡に拠点を置いて活躍中。 |
北京市内東部、現代建築が立ち並ぶ国際的ビジネス街に、北京で最もファッショナブルなビル群と言われる建外SOHOがある。実は、その設計者はまだ若い日本人だ。
迫慶一郎さん(43)は、10年前に北京に設計事務所を設立、これまでに約80件のプロジェクトを手がけてきた。そのフィールドは建築、都市計画からインテリアまで幅広く、中国で最も活躍する日本人建築家と言われている。彼はまた、東日本大震災の被災地復興のため、陸上に強固な人工地盤を持つ人工島を建設して街をつくろうという「東北スカイビレッジ」プロジェクトにも尽力している。
中国で起業して成功を収め、さらに世界へ羽ばたく迫さんに聞いた。
――2004年、憧れ続けていた米国留学の寸前に中国の仕事を受けて、事務所も設立したそうですね。もともとは中国にあまり興味がなかったとうかがいましたが、なぜこうした展開になったのでしょう。
僕は子供のころから建築家になりたくて大学に進学し、著名な建築家の研究室で勉強し、現代建築に興味を持っていました。このため、視線は米国やヨーロッパに向いていました。学生のころからずっと米国、特にニューヨークに行きたいと思っていましたが実現する機会がありませんでした。
ところが、ちょうどそのころ、中国では多数の現代建築の建設が始まっていました。2000年に建外SOHOのコンペで選ばれ、2004年の初めまでその仕事をしていましたが、それが終わったら独立前に米国に数年間留学すると決め、準備を進めていました。それが、プロジェクトが終わろうとしたころ、友人の建築評論家の方振寧さんが中国のプロジェクトを紹介しようという電話をくれたのです。浙江省金华市の交通局ビルのデザインの仕事でしたが、本当にいい話でした。米国留学と浙江省の仕事、二つのチャンスを両方とも諦めたくなかった僕は、急いで事務所を北京に設立し、米国に行くまでの期間でデザインを決め、その後は米国からの遠隔操作も含めて対応しようと考えました。もし両方を並行してできないようなら、米国のほうは諦めようと考えていましたが、ニューヨークと北京を往復する生活を一年続け、結局、両方を実現することができました。
――先ほど、事務所を拝見させていただきましたが、みなさん6時過ぎでもバリバリ仕事をされていますね。設立から10年で、二人しかいなかった事務所が今のように立派になりました。10年間で、自慢できることは何ですか。
まずは、2004年から今までずっと設計事務所を続けてこられたことです。これが僕にとって一つの成果だと思っています。
10年前、外国と中国の設計事務所の間にデザイン力に大きな差がありましたが、この10年間、中国にもたくさんの現代建築が完成して中国人設計者の方たちのレベルも飛躍的に向上し、自信も持つようになり外国人の設計事務所を見る目も変わりました。さらに、外国人の設計事務所の数も大きく増えました。かつて世界の工場と言われた中国は、この10年で世界の市場に変わり、以前は労働力を求めて中国に来た外国企業は、今はマーケットを求めて来るようになりました。日本だけではなく、欧米やアジアからも挙って来るようになり、環境はどんどん厳しくなりました。ただ、僕は十年間で多くの成果を出してきましたし、それがネットや雑誌に載ったり、テレビでも取り上げられたりして、多くの人が注目してくれるようになりました。これを途切れることなく10年間続けてきたことを、僕は自慢してもいいのかなと思っています。 もう一つの成果はすべてのプロジェクトに全力を注いできたことで、これは他の多くの設計事務所とは違うのではないかなと思っています。
ちょっと専門的な話になりますが、プロジェクトには条件のいいものとそうではないものがあります。予算が少ないとか施工会社のレベルが低いとかいう初期条件に加えて、いざ始めてみると想定外の困難に遭うことがあります。そういった条件に恵まれない場合、契約した内容の仕事だけをさっさと終わらせ、余力を別のプロジェクトに回すことが賢いやり方です。しかし、僕はすべてのプロジェクトに全力を注いできました。こんな非効率なやり方は経営者としては正しい判断ではないかもしれません。でも、どんな逆境になってもそれを乗り越える方法を模索してきたことで鍛えられ、自分を逞しくしてくれたと思っています。僕のクライアントは90%以上が中国の方ですが、その高い期待にしっかり応えてきたことも自慢できると思います。
もう一つは、「チャイニーズ・ブランド・アーキテクチャー」を一つの目標にしてきたことです。単に外国の潮流を中国に持ち込むというのではなく、僕はプロジェクト毎に一つひとつ真剣に考え、中国でしかつくり得ないものを追究してきました。それを「チャイニーズ・ブランド・アーキテクチャー」と呼んでいます。現在の中国には建築材料はなんでもそろっていますが、施工のレベルにはまだ改善の余地があります。一方、多くの“人の手”をかけることができます。つまり、たくさんの時間と人を使わなければできない作品は、中国ならではのもので、これは世界が真似できないものです。これは一例ですが、そうした世界が真似できない、中国ならではの建築というものをつくっていきたいと思っています。それはこれからも変わりません。
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