「カイロ宣言」の条項は履行されなければならない

--「カイロ宣言」発表70周年記念  

グリニッジ標準時1943年12月1日23時30分、中米英3カ国政府首脳がカイロ会談で決めた「カイロ宣言」が重慶、ワシントン、ロンドンで同時に正式発表された。それから70年、日本の侵略問題の戦後処理を行い、アジア太平洋地域の平和と安全を確保する重要な国際文書として、カイロ宣言の意義と影響は衰えるどころか、時間が経つほどに深まっている。(文:羅援・国際問題専門家)

 一、カイロ宣言は、日本の侵略行為を断固制止し、懲罰するとの中米英ソ4大国を頭とする反ファシズム連合国および国民の共通の意志を体現

 1943年11月22-26日、当時の蒋介石・中国国民政府主席、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相の率いる代表団はエジプトの首都カイロで国際会議を開き、共同対日作戦計画および日本の戦後処理など重大な軍事、政治問題について協議し、最終的にカイロ宣言を決定した。カイロ宣言は中米政府首脳の長時間の協議を踏まえて米側が起草し、中米英が共同決定したものだ。カイロ宣言の誕生は、それが中米英3カ国政府首脳が自ら決定し、ソ連政府首脳の完全な賛同を得た、4大国の一致団結の象徴であり、日本の侵略行為を断固制止し、懲罰するとの中米英ソ4大国を頭とする反ファシズム連合国および国民の共通の意志と心の声の体現であることをはっきりと物語っている。まさにルーズベルトが述べたように「中米英ソおよびその同盟国は世界の4分の3以上の人口を代表しており、この4つの軍事大国が一致団結し、平和維持を決意しさせすれば、1つの侵略国が再び世界大戦を発動する可能性は生じ得ない」のであり、4大国がカイロ宣言に共に賛同した意義もここにある。

 二、カイロ宣言は、日本の潜在的侵略力を永遠に防止し、消滅させ、戦後の長期的な平和と安全を実現するための反ファシズム連合国および国民の長期的原則を反映

 カイロ宣言はイタリアが降伏し、独日ファシズム集団が苦境に陥り、反ファシズム連合国が攻勢に転じて勝利が目前となった1943年に誕生した。この背景の下、中米英3カ国首脳はカイロ宣言を決定するにあたり、日本ファシズムを迅速かつ徹底的に打ち負かし、無条件降伏に追い込む方法だけでなく、戦後世界の取り決めの問題も考慮した。3カ国首脳は、当時の日本には侵略の習性がある上、相当高い工業力、科学技術力、軍事力があり、アジア太平洋地域の平和・安全にとって災いの元であり、1874年以来対外侵略戦争を再三発動し、琉球を併呑し、朝鮮をわが物にし、中国や東南アジア諸国の生存を深刻に脅かし、米英ソ仏蘭のアジア太平洋地域における利益を深刻に侵害したことを熟知していた。このため日本を打ち負かした後、いかにして日本の潜在的侵略力の復活を防止し、アジア太平洋の長期的な平和と安全を実現し、抗日戦争(日本の呼称・日中戦争)の多大な犠牲を無にしないかが、解決せねばならぬ重要問題となった。

このため中米英3カ国首脳はカイロ会談で、今後数世代にわたりアジア太平洋地域の平和・安全を確保するための長期的原則について踏み込んで話し合った。まさにこうした長期的原則に基づき、カイロ宣言は3カ国の趣旨が、日本が1914年の第一次大戦開始以降に勝ち取った、または占領した太平洋の全ての島嶼を剥奪すること、日本が中国から窃取した領土(東北四省、台湾、澎湖諸島など)を中国へ返還すること、日本は暴力および貪欲により強奪した全ての土地から駆逐され、適切な時期に朝鮮は自由になり、独立することを明確に宣言したのだ。カイロ会談でルーズベルトと蒋介石は、米国と中国は戦後インドシナその他植民地の独立を助けるべく共に努力するべきであり、タイは独立を回復すべきとの考えでも一致した。

 1941年8月に米英首脳会談後に発表された大西洋憲章が対独作戦の目的を宣言し、欧州大西洋地域の平和・安全を確保する綱領的文書であるのと同様、カイロ宣言は対日作戦の目的を宣言し、アジア太平洋地域の平和・安全を確保する綱領的文書だ。1943年12月2日付のエジプトの仏語紙が社説で、カイロ宣言を「真の太平洋憲章」と呼んだことは、その本質を明確に指摘したものといえる。まさにカイロ宣言は中国が日本軍国主義による中国侵略の罪の償いをさせ、国家の領土の完全性と主権を守るための完全な法的根拠となり、日本に虐げられ、抑圧されたアジア太平洋地域の他の国々が自由と独立を実現するための保証となったのみならず、日本国民にも平和な暮らしへの希望をもたらし、それ以上にアジア太平洋地域の戦後の平和と安全の重要な礎となったのである。

 三、日本政府にはカイロ宣言をしっかりと履行する義務がある

 日本は1945年の終戦の勅書、日本の降伏文書、1972年の中日共同声明、1978年の中日平和友好条約でカイロ宣言の履行を公に約束した。1945年7月26日、中米英3カ国政府首脳の蒋介石、トルーマン、チャーチルはポツダム宣言を発表した。ポツダム宣言第8項は「カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と明確に定めている。ソ連は8月8日の対日宣戦布告で、7月26日の中米英3カ国のポツダム宣言に参加し、9日から日本と戦争状態に入ることを表明した。8月14日に日本の裕仁天皇は終戦の勅書で、日本政府に命じて米英中ソ4カ国政府にポツダム宣言の受諾を通告したと述べた。9月2日、東京湾上の米戦艦「ミズーリ」で重光葵と梅津美治郎が日本代表として、日本の降伏文書に署名した。降伏文書の第1条は、米国、中国、英国政府の首脳が1945年7月26日にポツダムにおいて発し、後にソ連が参加したポツダム宣言の条項を日本国天皇、日本国政府、および日本国大本営の命により受諾すると表明。第6条は、日本国はポツダム宣言の条項を誠実に履行し、宣言を実施するため連合国最高司令官またはその他連合国代表者が要求する一切の命令を発し、かつ一切の措置を執るとした。

 1972年9月29日、中華人民共和国の周恩来国務院総理、姫鵬飛外交部長(外相)と日本国の田中角栄内閣総理大臣、大平正芳外務大臣が北京で中日共同声明に署名。声明は「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」とした。1978年8月12日、中華人民共和国の黄華全権代表、日本国の園田直全権代表が北京で中日平和友好条約に署名。10月23日に東京で批准書を交換し、正式に発効した。条約は1972年の中日共同声明が「両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきこと」を確認した。

 カイロ宣言は戦後国際秩序と日本の領土範囲を確定した全ての法的文書の「母株」であり、日本は不服でも遵守しなければならない。これは日本の天皇と政府の国際社会に対する正式な約束であり、この約束を果たせるか否かは日本の国際的信望に関わり、全世界の人々が見守っている。

 

 「人民網日本語版」2013年12月1日

 

 

 
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