師・平山郁夫画伯から学んだ 敦煌美術の「線」の美
聞き手=光部愛 写真=賈秋雅
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プロフィール
傅益瑶(ふえきよう)1947年南京市生まれ、中国近代画壇巨匠・傅抱石の三女。1979年、国費留学生の第一期生として来日。平山画伯のほか、奥村土牛、東山魁夷、加山又造、塩出英雄らの巨匠に就いて日本画を習う。日本の祝祭文化に深い関心を持ち全国各地で取材。横浜円満寺の障壁画『比睿山延暦寺』『天台山国清寺』は第二回輪雅賞を受賞。そのほか神道文化奨励特別賞受賞。 |
――敦煌に初めて行かれたのは。
傅益瑶さん(以下傅と略す) 1983年のことです。平山郁夫先生が、当時の文部省の事業で学術調査団の団長として、敦煌へ行くことになり、私も連れて行っていただきました。私はもちろん自費で行かなければなりませんが、そんなお金はありません。平山先生がすべて工面してくださいました。
当時の敦煌は、大変静かなところでした。まだ整備されておらず、一般には開放されていませんでした。砂漠しかない風景は、私にとって大変退屈でした。初めて訪れた私でもそうですから、何度も訪れている先生はもっと退屈だろうと聞くと、「あなたは敦煌を知らない」とおっしゃるのです。先生の話を聞き『旧好承新歓』という、古いつきあいだが会う度に新鮮で、初恋のようにときめくという中国のことわざがあることを紹介すると、「そう、そう、その通りだ」と言われました。
――平山郁夫氏と出会ったのはいつですか。
傅 1979年に来日してすぐにお会いしました。私はまだ日本語は全く話せませんでしたが、先生は父のことをご存知で、私がお世話になった駐日中国大使とも仲が良く、親切にしてくださいました。私が、先生の研究室で学びたいと言うと「時が来たら、来なさい」と。
武蔵野美術大学で学んだのち、東京藝術大学の平山研究室に入りました。特待生として入れてくださったのです。しかしその時点で私は敦煌美術についてほとんど知識がありませんでした。中国でもあまり注目されておらず、資料も少なかったのです。
――敦煌での印象的なできごとは。
傅 第57号の石窟には一番美しい観音菩薩がいらっしゃいます。先生は普段から口数が少ないのですが、仕事に入るとその姿はさらに厳粛になり、話しかけることができない雰囲気になります。薄暗い中でふと先生を見ると、目に涙を浮かべていました。それまで先生が個人的な感情を表に出すのを一度も見たことがなかった私は、大変驚きました。菩薩の愛情あふれる美は、人の心を開くのだと思います。また、現地では壁画を描いた職人の狭い住まいも見ましたが、厳しい気候に耐えて描きぬいた当時の画家の精神も含め、先生は敦煌美術を深く理解し、敬意を払っていたようです。
――傅さんに平山先生が伝えたかったことは何でしょう。
傅 日本に帰った後、研究室で、現地で見た絵を描いているとき、普段は学生の描いた絵に対しほとんど意見を言わない先生が、私のところに来てこう言うのです。「あなたは中国人なのだから、『線』をもっとわかってくれなくては」と。先生は私の筆をとり、「線」を描きました。あまりにも珍しい先生の行動に二、三十人の学生がまわりに集まってきました。
先生は敦煌美術のすばらしさは「線」にあるというのです。インドの壁画は色彩に頼って人物を描くが、中国は書道の発達により「線」の美が生まれた。これが東洋美術の真髄だと。この教えがなければ、私は永遠にわかりませんでした。中国人にとっては、デッサンより「線」の素晴らしさが美の上位にあるのです。
平山先生によって、日本人の精神の拠り所となるシルクロードの文化が日本に持ち込まれ、逆輸入の形で中国人の心の中にも広がるようになったのです。
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1983年、初めて敦煌を訪れた傅益瑶氏。莫高窟陳列館にて。(写真=本人提供) |
1983年、研究者たちと満月の鳴沙山で。1番右が傅益瑶氏、 左から2番目が平山郁夫氏(写真=本人提供) |
人民中国インターネット版 2013年
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